積上げられた乾草があった。
荷車は、軒場に乗りつけたまま放ってあった。
室内には、古いテーブルや、サモ※[#「※」は「ワ」に濁点、21−3−9]ールがあった。刺繍《ししゅう》を施したカーテンがつるしてあった。でも、そこからは、動物の棲家《すみか》のように、異様な毛皮と、獣油の臭いが発散して来た。
それが、日本の兵卒達に、如何にも、毛唐の臭いだと思わせた。
子供達は、そこから、琺瑯引きの洗面器を抱えて毎日やって来た。ある時は、老人や婆さんがやって来た。ある時は娘がやって来た。
吉永は、一中隊から来ていた。松木と武石とは二中隊の兵卒だった。
三人は、パン屑《くず》のまじった白砂糖を捨てずに皿に取っておくようになった。食い残したパンに味噌汁をかけないようにした。そして、露西亜人が来ると、それを皆に分けてやった。
「お前ンとこへ遊びに行ってもいいかい?」
「どうぞ。」
「何か、いいことでもあるかい?」
「何ンにもない。……でもいらっしゃい、どうぞ。」
その言葉が、朗らかに、快活に、心から、歓迎しているように、兵卒達には感じられた。
兵卒は、殆んど露西亜《ロシア》語《ご》が分らなかった。けれども、そのひびきで、自分達を歓迎していることを、捷《すばや》く見てとった。
晩に、炊事場の仕事がすむと、上官に気づかれないように、一人ずつ、別々に、息を切らしながら、雪の丘を攀《よ》じ登《のぼ》った。吐き出す呼気が凍《こご》って、防寒帽の房々した毛に、それが霜のようにかたまりついた。
彼等は、家庭の温かさと、情味とに飢え渇していた。西伯利亜へ来てから何年になるだろう。まだ二年ばかりだ。しかし、もう十年も家を離れ、内地を離れているような気がした。海上生活者が港にあこがれ、陸を恋しがるように、彼等は、内地にあこがれ、家庭を恋しがった。
彼等の周囲にあるものは、はてしない雪の曠野《こうや》と、四角ばった煉瓦《れんが》の兵営と、撃ち合いばかりだ。
誰のために彼等はこういうところで雪に埋れていなければならないだろう。それは自分のためでもなければ親のためでもないのだ。懐手をして、彼等を酷使していた者どものためだ。それは、××××なのだ。
敵のために、彼等は、只働きをしてやっているばかりだ。
吉永は、胸が腐りそうな気がした。息づまりそうだった。極刑に処せられることなしに兵営から逃出し得るならば、彼は、一分間と雖《いえど》も我慢していたくはなかった。――僅かの間でもいい、兵営の外に出たい、情味のある家庭をのぞきたい。そういう慾求を持って、彼は、雪の坂道を攀じ登った。
丘の上には、リーザの家があった。彼はそこの玄関に立った。
扉には、隙間風が吹きこまないように、目貼《めば》りがしてあった。彼は、ポケットから手を出して、その扉をコツコツ叩いた。
「|今晩は《ズラシテ》。」
屋内ではぺーチカを焚《た》き、暖気が充ちている。その気はいが、扉の外から既に感じられた。
「今晩は。」
「どうぞ、いらっしゃい。」
朗らかで張りのある女の声が扉を通してひびいて来た。
「まあ、ヨシナガサン! いらっしゃい。」
娘は嬉しそうに、にこにこしながら、手を出した。
彼は、始め、握手することを知らなかった。それまで、握手をしたことがなかったのだ。何か悪いことをするように、胸がおどおどした。
が、まもなく、平気になってしまった。
のみならず、相手がこちらの手を強く握りかえした時には、それは、何を意味しているか、握手と同時に、眼をどう使うと、それはこう云っているのだ。気がすすまぬように、だらりと手を出せば、それは見込がない。等々……。握手と同時に現われる、相手の心を読むことを、彼は心得てしまった。
吉永がテーブルと椅子と、サモ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ールとがある部屋に通されている時、武石は、鼻から蒸気を吐きながら、他の扉を叩いていた。それから、稲垣、大野、川本、坂田、みなそれぞれ二三分間おくれて、別の扉を叩くのであった。
「|今晩は《ズラシテ》。」
そして、相手がこちらの手を握りかえす、そのかえしようと、眼に注意を集中しているのであった。
彼等のうちのある者は、相手が自分の要求するあるものを与えてくれる、とその眼つきから読んだ。そして胸を湧き立たせた。
「よし、今日は、ひとつ手にキスしてやろう。」
一人の女に、二人がぶつかることがあった。三人がぶつかることもあった。そんな時、彼等は、帰りに、丘を下りながら、ひょいと立止まって、顔を見合わせ、からから笑った。
「ソぺールニクかな。」
「ソぺールニクって何だい?」
「ソぺールニク……競争者だよ。つまり、恋を争う者なんだ。ははは。」
三
松木も丘をよじ登って行く一人だった。
彼
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