に近づいて来た。
 ウォルコフのあとから逃げのびたパルチザンが、それぞれ村へ馳せこんだ。そして、各々、家々へ散らばった。

       二

 ユフカ村から四五露里|距《へだた》っている部落――C附近をカーキ色の外皮を纏った小人のような小さい兵士達が散兵線を張って進んでいた。
 白樺や、榛《はんのき》や、団栗《どんぐり》などは、十月の初めがた既に黄や紅や茶褐に葉色を変じかけていた。露の玉は、そういう葉や、霜枯れ前の皺びた雑草を雨後のようにぬらしていた。
 草原や、斜丘にころびながら進んで行く兵士達の軍服は、外皮を通して、その露に、襦袢《じゅばん》の袖までが、しっとりとぬれた。汗ばみかけている彼等は、けれども、「止れ!」の号令で草の上に長々ところんで冷たい露に頬をぬらすのが快かった。
 逃げて行くパルチザンの姿は、牛乳色《ちちいろ》の靄に遮《さえぎ》られて見えなかった。彼等はそれを、ねらいもきめず、いいかげんに射撃した。
 左翼の疎《まば》らな森のはずれには、栗本の属している一隊が進んでいた。兵士達は、「止れ!」の号令がきこえてくると、銃をかたわらに投げ出して草に鼻をつけて匂いをかいだり、土の中へ剣身を突きこんで錆《さび》を落したりした。
 その剣は、豚を突殺すのに使ったり、素裸体《すっぱだか》に羽毛をむしり取った鵞鳥の胸をたち割るのに使って錆させたのだ。血に染った剣はふいても、ふいてもすぐ錆が来た。それを彼等は、土でこすって研ぐのだった。
 栗本は剣身の歪《ゆが》んだ剣を持っていた。彼は銃に着剣して人間を突き殺したことがある。その時、剣が曲ったのだ。突かれた男は、急所を殴られて一ッぺんに参る犬のようにふらふらッとななめ横にぴりぴり手足を慄《ふる》わしながら倒れてしまった。突きこんだ剣はすぐ、さっと引きぬかねば生きている肉体と血液が喰いついてぬけなくなることを彼はきいていた。が、それを思い出したのは、相手が倒れて暫らくしてからだった。彼は、人を殺したような気がしなかった。彼は、人を一人殺すのは容易に出来得ることではないと思っていた。が実際は、何のヘンテツもない土の中へ剣を突きこむのと同じようなことだった。銃のさきについていた剣は一と息に茶色のちぢれひげを持っている相手の汚れた服地と襦袢を通して胸の中へ這入ってしまった。相手はぶくぶくふくれた大きい手で、剣身を掴《つか》んで、それを握りとめようとした。同時に、ちぢれた鬚《ひげ》を持った口元を動かして何か云おうとするような表情をした。しかし、何も云わず、ぶくぶくした手が剣身を握りとめないうちに、剣は、肋骨《ろっこつ》の間にささって肺臓を突き通し背にまで出てしまった。栗本は夢ではないかと考えた。同時に、取りかえしのつかないことを仕出かしてしまったことに気づいた。銃を持っている両腕は、急にだらりと、力がぬけ去ってしまった。銃は倒れる男の身体について落ちて行った。
 暫らくして、両脚を踏ンばって、剣を引きぬくと、それは、くの字形に曲っていた。
 その曲ったあとがなかなかもとの通りになおらなかった。殺人をした証拠のようにいつまでも残っていた。
「これからだって、この剣にかかってやられる人間がいくらあるか知れやしないんだ。」栗本はそんなことを考えた。「また、俺等だって、いつやられるか知れやしないんだ。」
 右の森の中から「進めッ!」という声がひびいた。
「さ、進めだぞ。」
 兵士は横たわったままほかの者を促すように、こんなことを云った。
「ま、ゆっくりせい。」
「何だ、吉川はかくれて煙草をのんでいたんか――俺に残りをよこせ!」
 白樺の下で、軍曹が笑い声でこんなことを云っているのが栗本に聞えてきた。
 栗本は銃を杖にして立ち上った。
 兵士達は、靴を引きずりながら、草の上を進んだ。彼等は湿って水のある方へ出て行った。草は腰の帯革《たいかく》をかくすくらいに長く伸び茂っていた。
「見えるぞ、見えるぞ!」
 右の踏みならされた細道を進んでいる永井がその時、低声《こごえ》に云った。ロシアの女を引っかけるのに特別な手腕を持っている永井の声はいくらか笑《えみ》を含んでいた。
 栗本は、永井が銃をさし出した方を見た。
 靄に蔽《おお》われて、丘の斜面に木造の農家が二軒おぼろげに見えた。
「ここだ。ここがユフカだな。」
 そう思った。が、その実、そこはユフカではなかった。
 兵士達は、小屋にパルチザンがかくれていて、不意に捨身の抵抗を受けるかもしれないと予想した。その瞬間、彼等は緊張した。栗本の右側にいる吉田は白樺に銃身をもたして、小屋を射撃した。銃声が霧の中にこだまして、弾丸《たま》が小屋の積重ねられた丸太を通して向うへつきぬけたことがこちらへ感じられた。吉田はつづけて三四発うった。
 森の中を行ってい
前へ 次へ
全9ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
黒島 伝治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング