呼びつけられていた。近所の人々は、猫のことから、こんな古い疵《きず》まで洗いたてて喋りあった。
「もうあんな奴は放ってしまえ。」やがてじいさんは猫のことをこう云い出した。
「捨てる云うたって、家に生れて育った猫じゃのに可愛そうじゃの」
「うらあもう大分風呂イ入らんせに垢まぶれじゃ」
 四五日、捨てる、捨てないで、云いあった後、ばあさんは、一日をつぶして、猫を手籠に入れて捨てに行った。近くだとすぐ帰って来るので、遠く向うの漁村まで行った。
 夜、じいさんは、夜なべに草履を作っていた。ばあさんは、長途を往復した疲れでぐったり坐っていた。秋の夜風が戸外の杏の枝を揺がしていた。雁の音がかすかに聞えて来る。
 と、戸外で「紋」のなく声がした。物乞うように続けてないた。
「戻って来たんかいな。」居眠りをしていたばあさんは、ふと眼を開けた。
「うむ、戻ってきたわイ。」じいさんは不服そうに云った。「内へ入れずに放っとけ!」
 障子は閉め切ってあった。「紋」は入口がないので、家の周囲をぐる/\廻って鳴いた。
「可愛そうに、入れてやろうか。」ばあさんは立ちかけた。
「えゝい、放っとけ。」
「障子でも破って入って来たら、あとで手がいるがの。」
 入口を開けてやると、「紋」はなつかしそうに、ばあさんの足もとにざれついた。
「そら、腹が減ったじゃろう。……よそでぬすっとやかいするんじゃないぞ!」とばあさんは麦飯を椀に入れてやった。
「猫を放った云うて、嘘の皮じゃ。まだ、ひろ/\してやがら。」
「あんな奴は叩き殺してしまえ!」近所の人々は口々に、憎さげに云った。
「もっと遠いとこイ持って行《い》て捨てイ。」とじいさんは、近所の噂を聞いてきて、ばあさんに云った。
「遠い所いうたって、どこへ持って行くだよ。」
「どこぞ、なか/\戻って来られん所じゃ。」
 毎晩、じいさんと、ばあさんとはこんなことを話しあっていた。
 地主の坊ちゃんは、部落の子供達を集めて、それぞれ四五尺の棒を手にして、猫を追っかけてぶん殴りに来た。
「茂兵衛ドンの猫は家の雛を捕ったんじゃで……魚でも、芋でも、何でも盗むんじゃ。」会う人に悉くそうふれまわった。
 我鬼どもは坊っちゃんのあとから、ひとかどの兵士になったつもりで、列を作って走った。棒は銃の代りに肩にかついでいた。
 子供達は、毎日兵隊ごっこをやった。敵はいつも猫だった。大将になった坊っちゃんのあとにはボール紙を円く巻いて口にあてがった、喇叭卒がつづいていた。
 猫は、跛を引いて逃げ帰ると、納屋の隅にうずくまって、殴られた足をかばうようにねぶった。
「猫を出せエ、こらッ! 猫を出せエ、こらッ!」兵隊になった子供達は、おりくの家のまわりを囲んで叫んだ。
 ばあさんは、また一日をつぶして、「紋」を手籠に入れて捨てに行った。今度は、上り一里、下り一里半の山を越して遠くへ行った。
「やれ/\寛ろいだ。もうこれで戻りゃせんじゃろうんの。」晩に暗くなってから、ばあさんは家へ帰って、「どこぞで風呂を一っぱい貰いたいもんじゃ。――ああ、シンドかった。」
「太衛門にゃ風呂場から煙が出よったけれど、入りに来い云うて来りゃせんがい。」と、じいさんは井戸端で足を洗ってきて云った。
「せんど風呂に入らんせに、垢まぶれになった上に汗をかいて、気色が悪るうてどうならん。」
 二人は、もう殆ど一カ月ばかり風呂に入っていなかった。夏だったら行水が出来るのだが、秋も十一月の初めになっては行水どころではなかった。
「まあ、今夜は、乾手拭ででも身体を拭いて辛抱せい。二三日たったら、またもとのように旦那んとこで入れて貰えようだイ。」と、じいさんは云って、自分で掘って来て蒸した芋を頬ばった。
 けれども、一日おいて、猫は再び帰って来た。そして、以前と同様に魚を盗んだり、鶏をねらったりした。
 子供達は、もう忘れてしまったように猫をいじめなかった。が、その代り、大人が、見つけ次第に礫を投げつけたり、棒でぶん殴りに来たりした。
「また味をつけて鶏を捕りやがった。今度は雛じゃなしに鶏じゃ。」地主の下男が、喧嘩腰で、また奴鳴りこんできた。
「一体、お前等が悪いんじゃ。戻らんとこへ捨てりゃえいことを、捨てもせず、放ったらかしじゃせに、よその鶏を捕るんじゃ。これは三円もする鶏じゃないかい。――こんなことしよったら、田や畠も旦那に取り上げられて、作らして呉れやせんぞイ。」
 下男は、鶏が一羽なくなったところで自分の損でもないのに、如何にも惜しそうな調子で文句を並べたてた。
 猫は、後脚に礫をあてられて、血を流しながら竈の傍につくなんでいた。
「今度見つけたら、見つけ次第に叩き殺してやる!」下男はこんな捨てせりふを残して去った。
「殺されたら可愛そうじゃせに、よそイ出て行かんように、家につな
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