事がつてゐた人間の体の分壊した名残りだ。土の上で、あそこに火を焚いてゐる。あれが消えれば灰になつてしまふ。併しまた火を付けようと思へば付けられる。併しその火はもう元の火ではない。丁度あんなわけで、もう己のあとには己といふものはないのだ。かう思ふと脚や背中がむづむづして来る。このソロドフニコフといふものは亡くなるのだ。ドクトル・ウラヂミル・イワノヰツチユ・ソロドフニコフといふものは亡くなるのだ。」
 この詞を二三遍繰り返して、ソロドフニコフは恐怖と絶望とを感じた。心臓は不規則に急促《きふそく》に打つてゐる。何物かが胸の中を塞ぐやうに感ぜられる。額には汗が出て来る。
「己といふものは亡くなつてしまふ。無論さうだ。何もかも元のままだ。草木《さうもく》も、人間も、あらゆる感情も元のままだ。愛だとかなんだとかいふ美しい感情も元のままだ。それに己だけは亡くなつてしまふ。何があつても、見ることが出来ない。あとに何もかも有るか無いかといふことも知ることが出来ない。なんにも知ることが出来ないばかりではない。己そのものが無いのだ。綺麗さつぱり無いのだ。いや。綺麗さつぱりどころではない。実に恐るべき、残酷な
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