くなつてゐた。丸で手ではなくて外の物のやうであつた。
 プラトンはびつくりして、「グラツシヤア」と一声呼んだ。その声が小さくて、咳枯《しやが》れてゐて、別人の声のやうであつた。夫人は隔たつた室にゐたので、此声が聞えなかつた。小さいニノチユカがゴム毬を抱いて走つて来て、すゞしい声で云つた。
「お父うさん。何御用。お母あさんを呼びませうか。」
 夫人が室に這入つた時には、プラトンは泣いてゐた。そして左の手と足とが利かなくなつて、右の目が見えなくなつたのを、容易に打ち明けて言はなかつた。
     ――――――――――――
 夫人の話の済んだ時は二時が鳴つてゐた。
「さあ。もうそろ/\行かなくちやあ。」学士がかう云つた。
「もう目を醒ましてゐるかも知れません。ちよつと見てまゐりませう。」夫人は泣き出しさうな声でかう云つて、病室へ行く。
「どれ。行つて見ませう。」学士は夫人の跡に附いて行く。
 病室に這入つて見ると、プラトンはぢつとして、両眼を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、意味もなく、しかも苦しげに、聖像の方を見詰めてゐた。



底本:「鴎外選集 第15巻」
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