板ばさみ
オイゲン・チリコフ Evgenii Nikolaevich Chirikov
森林太郎訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)周囲《まはり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)数日|前《ぜん》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》の

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ちら/\する
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 プラトン・アレクセエヰツチユ・セレダは床の中でぢつとしてゐる。死んでゐるかと思はれる程である。鼻は尖つて、干からびた顔の皮は紙のやうになつて、深く陥つた、周囲《まはり》の輪廓のはつきりしてゐる眼窩《がんくわ》は、上下《うえした》の瞼が合はないので、狭い隙間を露《あらは》してゐる。その隙間から、これが死だと云ふやうに、濁つた、どろんとした、硝子《ガラス》めいた眼球《めだま》が見える。
 室内は殆ど真暗である。薄板を繋いだ簾《すだれ》が卸してあるので、そこから漏れて来る日の光が、琥珀のやうな黄を帯びて、一種病的な色をしてゐる。人を悲しませて、同時に人を興奮させる色である。暗い片隅には、聖像の前に燈明が上げてある。このちら/\する赤い火があるために、部屋が寺院にある龕《がん》か、遺骨を納める石窟かと思はれる。
 黒い服を着た、痩せた貴婦人が、苦痛を刻み附けられた顔をして、抜足をして、出たり這入つたりする。これが病人の妻グラフイラ・イワノフナである。女は耳を澄まして、病人の寐息を開く。それから仰向いて、燈明の小さい星のやうに照つてゐる奥の聖像を見る。それから痩せて、骨ばかりになつてゐる両手で、胸をしつかり押へて、唇を微かに動かす。
 折々は大学の制服を着た青年が一人、不安らしい顔をして来て、二三分間閾の上に立つて、中の様子を窺つてゐて、頭を項垂《うなだ》れて行つてしまふ。
 こん度来たのは、脚の苧殻《をがら》のやうに細い、六歳の娘である。お父うさんを見ようと云ふので、抜足をして、そつと病人の足の処まで来て、横目で見た。常は慈愛、温厚、歓喜の色を湛へてゐた父の目が、例の※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》の隙間から、異様に光つてゐるのを見て、娘は本能的に恐怖心を発した。そしてニノチユカの小さい胸は波立つた。ニノチユカは跡から追ひ掛けられるやうに、暗い室から座鋪《ざしき》へ出た。そこには冬の朝の寒い日が明るく照つてゐて、黄いろいカナリア鳥が面白げに、声高く啼いてゐて、もうこはくもなんともなくなつた。
「お父うさんはまだお目が醒めないかい。」と、母が問うた。
「いゝえ。」
「もう一遍行つて見てお出。」
「こはいわ。お父うさんがこはい顔をしてゐるのだもの。」おもちやにしてゐた毬の手を停めてかう云つたとき、娘の顔は急に真面目になつて、おつ母さんそつくりに見えた。
「馬鹿な事をお言ひなさい。」
「だつて、お父うさんの目丈があたいを見てゐて、お父うさんは動かずにゐるの。」
 子供のかう云ふのを聞いて涙ぐんだので、母は顔を背《そむ》けた。娘はもう父の事を忘れてしまつてゴム毬を衝いてゐる。
 午後一時頃に、門口のベルがあら/\しい音を立てた。誰も彼も足を爪立てて歩いて、小声で物を言つてゐる家の事だから、此音は不似合に、乱暴らしく、無情に響いた。グラフイラ夫人はびつくりして、手で耳を塞ぎさうにした。耳を塞いだら、ベルの方で乱暴をしたのを恥ぢて黙つてしまふだらうとでも思ふらしく、そんなそぶりをした。それから溜息を衝いて、玄関の戸を開けに立つた。来たのが医者だと云ふことは知つてゐるのである。併し学生が一足先きに出て、戸を開けた。
「先生です。」学生は隕星《ゐんせい》のやうに室内を、滑つて歩きながら、かう云つた。
 学生は学士シメオン・グリゴリエヰツチユを信頼してゐる。学生の思ふには、今此家で抜足をせずに歩いて、声高に物を言つて、どうかすると笑つたり、笑談を言つたりすると云ふ権利を有してゐるものは、此学士ばかりである。
 学士は玄関でさう/″\しい音をさせてゐる。ゴム沓《ぐつ》がぎい/\鳴る。咳払の音がする。それからいつもの落ち着いた、平気な、少々不遠慮な声で、かう云ふのが聞えた。
「どうですな。新聞に祟《たゝ》られた御病人は。」
「眠つてゐますが。」
「結構々々。それが一番好い。」
「おや。入らつしやいまし。」戸を開けた学士を見て、夫人がかう云つた。哀訴するやうな声音である。
「いや。奥さん。ひどい寒さですね。雪が沓の下できゆつきゆと云つてゐます。かう云ふ天気が僕は好き
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