を交換するに適当な人物がゐないので、己は向側に坐つてゐるプロホル・サヰツチユの方を見た。ところがプロホルの顔は余程前から己の様子を覗つてゐたと見えて、手にはヲロス新聞を持つてゐて、己のが済んだら取換て見ようとしてゐる。己に顔を見られると、プロホルは黙つてリストツク新聞を受け取つて、代りにヲロス新聞を渡したが、渡す時指の尖《さき》で或る記事を押へて、そこを読めと云ふ意味を知らせたのである。プロホルは一体妙な男で、平生|詞数《ことばかず》を言はず、年を取つても独者《ひとりもの》で暮し、誰とも交際しない。こんな役所で一しよに勤めてゐれば、どうしても詞を交さずにはゐられないのに、この男は黙つてゐて、何事に付けても特別な意見を持つてゐて、それを誰にも明さない。自分の内へ同僚を来させた事もない。只寂しく暮してゐると云ふ評判を聞くだけである。ヲロス新聞には次の記事が出てゐた。
「吾人は進歩主義を奉じ、人道的に云為《うんゐ》し、西欧諸国の人士の下《もと》に立たざらんと欲するものにして、これ世人の夙《つと》に認むる所ならん。本紙の希望と努力とは斯の如くなるに拘はらず、吾人は不幸にして我が同胞の未だ成熟の域に達せざるを発見せり。昨日新道に於て認められたる事実は、実にこれを証するに余りあるものとす。吾人は遺憾ながら斯の如き事実の早晩現出すべきを予言したる事あり。曩日《なうじつ》一外人ありて帝都に生きたる※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を携へ来り、新道に於て公衆に示す事とせり。斯の如き有益にして人智開発上|裨補《ひほ》する所ある営業の代表者の来りて、帝都に開店したるを見て、吾人は直ちに賛成の意を表したり。然るに両三日前午後五時頃一人の肥胖漢《ひはんかん》あり。酒気を帯びて新道の店に来り、入場料を払ひて場内に入りしが、突然彼の※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]を飼養しあるブリツキ盤に近づき、傍人《ぼうじん》に一語を交へずして※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の口内に闖入せり。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]はその儘彼の人物を口内に置く時は窒息すべきを以て、自営上止むを得ず彼の人物を嚥下《えんげ》せり。然るに彼の氏名未詳の人物は※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の胃中に入りてこゝに住居を卜し、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の持主の嘆願を容れず、数多《すうた》の不幸なる家族の悲鳴を省ず、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の胃中に滞留せり。警察の力を借りて退去を命ぜんと威嚇するものありしが、該人物は依然聴許せず。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の胃中よりは笑声洩れ聞え、又※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の腹を切開せんと脅迫するに至る。憫むべき※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]は斯の如き長大なる物を呑みたる為め頻に落涙しをれり。我国の古諺《こげん》に曰く。速《まね》かざる客は韃靼人《だつたんじん》よりも忌《い》まると。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]は縦令《たとへ》落涙すとも、胃中の寄住者を如何《いかん》ともする事能はざるなり。寄住者は永久に退去するを肯《がへん》ぜざるものゝ如し。吾人はこの人物の何故に斯の如き蛮行を敢てしたるかを説明する事能はずと雖、この事実の我が同胞の未だ成熟せざるを証明し、外侮《ぐわいぶ》を招くべきを見て遺憾なき能はず。我国人に放縦《はうじゆう》の悪性質あるは、吾人の平素痛嘆する所なるが、この新事実は明かにこの性質を表示するものとす。試に問はん。彼の速かざる客はこの行為を以て何の目的を達せんとしたるか。温暖にして安楽なる住所を得んと欲せしか。果して然りとせば、彼の人物は何故に市中に就いて適当なる借家を捜索せざりしか。本市には廉価にして美麗に且便利なる借家少からず。ネワ河水を鉄管にて引きたる上水あり。瓦斯燈《がすとう》の装置あり。その完全なる物に至つては門衛をも家主《いへぬし》の支辨にて雇ひ入れあるにあらずや。吾人は最期に読者の注意を乞はんと欲する一事あり。即ち動物虐待の問題これなり。彼の肥胖漢を消化するは※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]の為めには非常に困難なるべき事論なし。※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]は長大なる物を腹中に貯へ、寸毫も身を動かすこと能はずして盤中に横り、今将《いまゝさ》に悶死せんとすと云ふ。西欧諸国に於ては動物虐待者は一々法律上処罰せらるゝものなり。独り我が同胞は既に瓦斯燈を設け、人道車道を区別し、新式の家屋を建設すと雖、今に至るまで依然として蒙昧粗笨《まうまいそほん》の域を脱せざるなり。グリボエドツフの曰く。吾人の家屋は新なりと雖、吾人の成心《せいしん》は古しと。吾人はこの語の猶事実に合せざるを遺憾とす。なんとなれば吾人の家屋はその梯《はしご》を新にしたるのみにて実は古きなり。本紙は既に屡々注意を与へたるに拘はらず、ペエテルブルク町の商家ルキアノツフ氏の住宅には、庖厨より居室に通ずる階段の既に久しく腐朽せるものあり。右の階段は今|終《つひ》に陥落したり。而して同家に使役せらるゝ兵卒の妻アフイミア・スカピダロワは彼の階段を上下《じやうか》する毎に非常なる危険を冒せり。殊に水若くは薪を運搬する時を然りとす。昨夕《さくせき》八時三十分アフイミアは汁を盛れる瓶《へい》を持ちて彼の階段を通過する際、終に倒れて下肢《かし》骨折をなせり。吾人は不幸にして未だルキアノツフ氏の該階段を修繕せしむるに意ありや否やを詳《つまびらか》にせず。由来我国人の悟性は遅鈍なり。吾人は只この遅鈍の犠牲たる憫《あは》れむべき女子の既に病院に送られたる事を報道し得るのみ。因《ちなみ》に謂《い》ふヰルブルク町の木造人道の塵芥を掃除する奉公人は何故に往来人の靴を汚染する事を省みざるや。外国の例の如く塵芥は一所に堆積する如く掃き寄するに何の困難もなきにあらずや。」
己は呆《あきれ》てプロホルの顔を見て云つた。「これは何の事でせう。」
「なにが。」
「どうも※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]に呑まれたイワンに同情せずに、却て呑んだ※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]に同情してゐるぢやありませんか。」
「それが不思議ですか。動物にまで同情するのです。理性のない動物にまで同情するのです。これでは西欧諸国にも負けてゐませんね。あつちもそんな風ですから。へゝゝゝ。」変物《かはりもの》の老人はかう云つた切り、取り扱つてゐる書類の方に目を向けて、跡は無言でゐた。
己は二枚の新聞をポツケツトに捻ぢ込んで序にペエテルブルク新報やヲロスの外の日のをも集めて持つて、この日にはいつもより早く役所を出た。まだ約束の時刻までには、大ぶ時間があるが、己は急いで新道に往つて、せめて遠方からなりとも、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]とイワンとの様子を見たり、見物人の話してゐる事を聞いて、人心の観察をしたりしようと思つたのである。いづれ見物人の数は多からうと思つたので、己は用心の為め外套の領《えり》を立てた。なぜだか知らないが、人に顔を見られるのが恥かしいやうな気がしたのである。一体我々は人中に出る事に慣れてゐないのだ。こんな事は言ふものゝ、友人が非常な運命に陥つてゐるのを思へば、己の平凡な感想なぞを彼此言ふのは済まない事だ。
底本:「鴎外選集 第15巻」岩波書店
1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「新日本 二ノ五―六」
1912(明治45)年5〜6月
原題(独訳):〔Das Krokodil. Eine aus&ergewo:hnliche Begebenheit oder eine Passage in der Passage.〕
原作者:Fyodor Mikhailovich Dostoevski, 1821−81.
翻訳原本:F. M. Dostojewski: 〔Sa:mtliche〕 Werke. 2. Abteilung, 17. Band. Onkelchens Traum und andere Humoresken. (Onkelchens Traum. Die fremde Frau und der Mann unter dem Bett. Das Krokodil.) Deutsch von E. K. Rahsin. 〔Mu:nchen〕 und Leipzig, Verlag von R. Piper u. Co. 1909.
※底本では題名に「※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]」が用いられている。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「細君」と「妻君」の混在は底本のママ。
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2002年1月16日公開
2006年1月7日修正
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