、おしまいにもう一ぺん、マレイをふりかえってみました。その顔《かお》は、もうはっきりとは見えませんでしたが、やっぱりやさしくほほえみながら、こちらへ向かってうなずいているような気がします。わたしが手をふると、マレイのほうでも手をふって、それから馬を引き始めました。
「ほれ、よう!」また、マレイのかけ声が遠くつたわってきて、馬は鋤《すき》を引き始めました。

 こんなことが、みんな、どうしたわけか一度にぱっとわたしの心によみがえってきました。おどろいたことには、こまかいことまで、とてもはっきりと、浮《う》かんできたのです。わたしは、急《きゅう》にはっとして、板《いた》の寝床《ねどこ》の上に起きなおりました。そのわたしの顔には、今でもおぼえているのですが、まだ静《しず》かな思い出のあのほほえみが消《き》えずに残《のこ》っていました。ほんの一分ばかり、わたしは、まだ思い出にひたっていたのでした。
 わたしはその日、マレイの畑《はたけ》からうちにもどっても、あの「できごと」のことは、だれにも話しませんでした。それに、できごとというほどのことでもないではありませんか? マレイのことだって、そのこ
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