を同じゅうする事件は、わがロシアの生活において、少なからず起こったものと考えなければならぬ。
 これ同様にアデライーダ・ミウーソフの行動は、疑いもなく他人の思想の反映であり、囚われた思想に刺激されたものであった。ことによると、彼女は女性の独立を宣言し、社会の約束や、親戚家族の圧制に反抗して進みたかったのかもしれない。また、御丁寧にも空想のおかげで、彼女は、フョードル・パーヴロヴィッチが居候の身分でこそあれ、向上の途上にある過度期における、最も勇敢にして最も皮肉な人間の一人であると、たとい一瞬間だけにもせよ、思いこんでしまったのであろう。その実、相手は性根のよくない道化者にすぎなかった。なおそのうえに痛快なのは、駆け落ちという非常手段を取ったことで、これがまた、すっかりアデライーダ・イワーノヴナの心を引きつけてしまったのである。フョードル・パーヴロヴィッチにしてみれば、自分の社会的地位からいって、このくらいのきわどい芸当はこちらから進んでやりたいくらいであった。というのは、手段などは問題でなく、ただただ出世のいとぐちを見つけたい一心だったからである。名門に取り入って、持参金をせしめるということは、きわめて誘惑的なことであった。相互の愛情などというものに至っては、女のほうはもとより、男のほうにも、アデライーダ・イワーノヴナの美貌《びぼう》をもってしても、なお全然なかったようである。かようなわけで、ほんのちょっとでも向こうが色気を見せると、相手がどんな女であろうとも、すぐにしつこくつきまとわずにはおかない淫蕩《いんとう》このうえもない男で一生を通したフョードル・パーヴロヴィッチにとっては、これこそ一世一代の、おそらく唯一の偶然なことであったろう。それにしても、この女ばかりは情欲の点からいって、彼になんらの特別な感銘を与えなかったのである。
 アデライーダ・イワーノヴナは駆け落ちの直後に、自分が良人《おっと》を軽蔑《けいべつ》しているのみで、それ以上にはなんの感情ももっていないことをたちどころに悟ってしまった。かくのごとくして、結婚の結末は非常な速さをもって暴露された。実家側がむしろ、かなり早めにこの事件にあきらめをつけて、家出をした娘に持参金を分けてやったのにもかかわらず、夫婦のあいだにはきわめて乱脈な生活と、絶え間のないいざこざが始まった。これは今なお世間に知られていることであるが、フョードル・パーヴロヴィッチは妻が金を受け取るやいなや、さっそく二万五千ルーブルからの金をすっかり巻きあげてしまった。したがって、彼女にとっては、これだけの大金が、あとかたもなく消えてしまったわけであるが、世間の人の噂によると、その際にも新妻のほうが良人よりも比べものにならないほど高邁《こうまい》な態度を示したという。やがて彼は、やはり彼女の持参金の中にはいっていた小さな村と、かなりに立派な町の家をも、何かそれ相当の証書を作って、自分の名義に書き換えようと、長いこと一生懸命に骨を折っていたが、絶え間なしにあつかましいおねだりや哀願をして、妻の心にいわば、軽蔑と嫌悪《けんお》の念とをよび起こし、女のほうを根負けさせて、ただそれだけで、女の手を逃げようとあせっていたのに相違ない。ところが、運のよかったことには、アデライーダ・イワーノヴナの里方が仲にはいってこの横領を押えてしまった。夫婦の間によくつかみ合いがあったということは全く周知の話であるが、言い伝えによると、打ったのはフョードル・パーヴロヴィッチではなくて、アデライーダ・イワーノヴナのほうだという。彼女は癇癪《かんしゃく》の強い、向こう見ずな、顔の浅黒い、気短かな女でなみなみならぬ腕力を賦与《ふよ》されていた。とうとう、しまいに彼女は、三つになるミーチャをフョードル・パーヴロヴィッチの手に残して、貧困のために零落しかかっているある神学校出の教師と手に手をとって家出をしてしまった。フョードル・パーヴロヴィッチはたちまち自分の家へたくさんの女を引き入れて、酒色にふけるようになった。また、その合い間合い間には、ほとんど県下一帯を回るようにして、会う人ごとに自分を見すてたアデライーダ・イワーノヴナのことを涙ながらに訴えたりそのうえ、良人として口にするのはあまりにも恥ずかしい結婚生活の子細を臆面もなくしゃべり立てたりした。何はさておき、こうして衆人の前で、はずかしめられた良人という滑稽《こっけい》な役割を演じたり、あまつさえ、いろんな潤色まで施して自分がこうむった凌辱《りょうじょく》を事こまかに描き出して見せるのが、彼にとっては愉快なばかりか、気休めにさえなったものらしい。『なあに、フョードル・パーヴロヴィッチさん、つらいにはつらいでしょうけれど、位を授かったことを思えば、満足でしょうに』と口性《くちさが》ない連中が言ったりした。それに多くの人が、彼はときどき道化者の面目を一新して、人の前へ出るのを嬉しがって、いっそうおかしくするために、彼らに自分の滑稽な立場に気がつかないようなふりをするのだとよけいなことまで言っていた。もっとも、それはおそらく、彼にあっては、無邪気なことであったかもしれぬ。ついに、彼は出奔した妻の行方を突きとめた。哀れな女は教師とともにペテルブルグへ落ちのびて、そこできわめて奔放自由な解放《エマンシペーション》に惑溺《わくでき》していたのであった。フョードル・パーヴロヴィッチは、さっそくあわて出して、自身でペテルブルグへ出かける準備をした。――なんのために? ということは、もとより、自分でもわからなかった。彼は実際、そのとき本当に行きかねなかったのであろうが、しかし、この決心を固めると同時に、彼は元気をつけるために、出発の前に、あらためて思いきりひと浮かれするのが当然の権利だと考えついた。ところが、まさにこの時であった。妻がペテルブルグで亡くなったという知らせが、彼女の里方へ届いたのである。彼女はどうかして、どこかの屋根裏で急に亡くなったのであった。一説には、チフスで亡くなったともいうが、また一説には飢え死にしたのだとも言われている。フョードル・パーヴロヴィッチは酔いしれているときに妻の訃報《ふほう》に接したが、いきなり往来へ駆け出すと、嬉しさのあまり両手を宙に差し上げながら、『今こそ重荷がおりた』と叫んだという。また一説には、いやなやつではあったが、小さい子供のように、おいおいと泣くので、見る目にも可哀《かわい》そうなほどであった、ともいわれている。それもこれも大いにありそうなことである。つまり、解放されたことを喜ぶと共に、同時に解放してくれた妻を思って泣いたのであろう。人間というものは、たいていの場合に、たとえ悪人でさえも、われわれがおおよその見当をつけているよりもはるかに無邪気で単純なものである。われわれ自身にしてもやはり同じことである。

   二 長男を追い立てる

 いうまでもなく、かような人間が父親として、また養育者として、どんな風であったかは、容易に想像がつくであろう。父親としての彼は、当然やりそうなことをしたまでであった。つまり、アデライーダ・イワーノヴナとのあいだに生まれた自分の子供を、まるきり見すててしまったのである。しかし、それは子供に対する悪意によるものでもなければ、はずかしめられた良人としての感情によるのでもなかった。ただ単に子供のことを全く忘れ果てていたからであった。彼が会う人ごとに涙を流し、泣き言を並べてうるさい思いをさせたり、自分の家を乱行の巣窟《そうくつ》にしたりしているうちに、三つになるミーチャの世話を引き受けたのは、この家の忠僕グリゴリイであった。もしもそのころ、この男がめんどうを見てやらなかったなら、子供にシャツ一つ替えてやる者もなかったであろう。それに、子供の母方の縁者も、初めのうちこの子のことは忘れていたらしかった。祖父にあたるミウーソフ氏、つまりアデライーダ・イワーノヴナの現在の父は、もうそのころはあの世の人となって、その未亡人、すなわち、ミーチャの祖母も、モスクワへ移って、そこで重い病気にかかっており、姉妹《きょうだい》という姉妹はみんなよそへ嫁《とつ》いでしまっていたので、ミーチャはまる一年というもの、グリゴリイのもとで、下男小屋に暮らさなければならなかった。
 それにしても、たとい父親がミーチャのことを思い出したとしても(事実、彼とても、この子の存在を知らずにいるわけにはいかなかった)、自分で、またもとの小屋へ追いやってしまったことであろう。なにしろ、子供はやはり放蕩《ほうとう》の邪魔になるからである。ところが、偶然にも、アデライーダ・イワーノヴナの従兄《いとこ》で、ピョートル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフという人がパリから帰って来た。この人は、そののち長年、ずっと外国に暮らしたほどで、そのころはまだかなりに若かったが、ミウーソフ家の人たちの中でも異色があり、都会的で、外国的な教養があり、のちには一生涯、ヨーロッパ人になりすましたばかりか、晩年には、四、五十年代によくあった自由主義者の一人となったほどであった。その華やかなりしころを通じて、彼は同時代における内外の最も進歩的な、多くの自由主義者たちと交渉があり、プルードンやバクーニンをも個人的に知っており、遊歴時代の終わりごろには、四十八年のパリ二月革命の三日間のことを思い出して、自分も市街阻絶《バリケード》戦に参加した一人であると言わぬばかりにほのめかしながら物語るのが大好きであった。これこそ彼の青年時代における最も楽しい思い出の一つであった。
 彼は昔の標準でいうと、千人ほどの農奴に相当する独立した財産をもっていた。彼の立派な領地はこの町を出はずれたところにあって、ここの有名な修道院の地所と境を接していた。ピョートル・アレクサンドロヴィッチはまだほんの若い時分に遺産を相続するやいなや、よくはわからないが、何か川の漁業権とか、森の伐採権とかのことで、この修道院を相手にはてしのない訴訟を起こしたものであった。彼は『僧侶』たちを相手どって訴訟を起こすのを、公民としてまた教養人としての義務だと心得ていた。ところで、かれはアデライーダ・イワーノヴナのことは、もちろん今もなお記憶にとどめ、かつては心を引かれたこともあったが、この女の身の上をすっかり聞かされ、またミーチャという子供ののこっていることを知るとフョードル・パーヴロヴィッチに対する青年らしい義憤と侮蔑《ぶべつ》を感じながらも、この事件にかかわりあうこととなったのである。そこで、はじめてフョードル・パーヴロヴィッチなる者を知った。彼はいきなり、子供の養育を引き受けたいと申しいでた。彼がその後、フョードル・パーヴロヴィッチの特徴を示す好資料だといって、長いあいだ語りぐさとしたところによれば、彼がミーチャのことを話しだしたとき、相手はしばらくのあいだ、いったいどんな子供のことが話題にのぼっているのか、さっぱり合点がいかぬといった風で、自分の家のどこかにそんな小さな息子がいたのかと、びっくりしたような顔つきをしてみせたとのことであった。たとい、ピョートル・アレクサンドロヴィッチの話に誇張があるにしても、しかもなお真実らしい何ものかがあったに相違ない。しかし、事実において、フョードル・パーヴロヴィッチは一生涯、何かだしぬけに人を驚かせるような芝居を打ってみせるのが大好きで、それも、時としては、別になんの必要もないどころか、たとえば、今の場合のように、みすみす自分の損になることさえいとわないのであった。もっとも、こうした傾向は、ひとりフョードル・パーヴロヴィッチばかりに限らず、多くの人、ときにはかなりに聡明な人にさえも、ありがちなものである。ピョートル・アレクサンドロヴィッチは熱心に事を運んで、フョードル・パーヴロヴィッチと共に子供の後見人にまでなってやった。というのは、やはり母親が亡くなっても小さな持ち村や、家作や地所などが残っていたからである。こうしてミーチャはこの又|叔父《おじ》のところに引き取られたが、この人は自分の家
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