カラマゾフの兄弟

ドストエーフスキイ
中山省三郎訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)汝《なんじ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)又|叔父《おじ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔plus de noblesse que de since'rite'〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 目次

作者より

第一篇 ある家の歴史
 一  フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマゾフ
 二  長男を追い立てる
 三  再婚と腹違い
 四  三男アリョーシャ
 五  長老
 
第二篇 お門違いな寄り合い
 一  修道院に着く
 二  老いたる道化
 三  信心深い女たち
 四  信心の薄い婦人
 五  アーメン・アーメン
 六  何のためにこんな人間が生きているのだ!
 七  野心家の神学生
 八  醜態

第三篇 淫蕩な人たち
 一  従僕の部屋にて
 二  リザヴェータ・スメルジャシチャヤ
 三  熱烈なる心の懺悔――詩
 四  熱烈なる心の懺悔――逸話
 五  熱烈なる心の懺悔――『まっさかさま』
 六  スメルジャコフ
 七  論争
 八  コニャクを飲みながら
 九  淫蕩な人たち
 一〇 女二人が
 一一 さらに一つの滅びたる名誉

第四篇 破裂
 一  フェラポント長老
 二  父のもとにて
 三  小学生の仲間に
 四  ホフラーコワ家にて
 五  客間における破裂
 六  小屋における破裂
 七  清らかなる外気のうちに

第五篇 Pro et contra
 一  婚約
 二  ギターをもてるスメルジャコフ
 三  兄弟相知る
 四  謀叛
 五  大審問官
 六  いまださほどに明らかならず
 七  『賢い人と話す興味』
[#改ページ]

[#ここから4字下げ]
誠にまことに汝《なんじ》らに告ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なずば、
唯《ただ》一つにて在《あ》りなん、もし死なば、多くの果《み》を結ぶべし。
[#ここから22字下げ]
ヨハネ伝第十二章第二十四節
[#ここで字下げ終わり]
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[#天から3字下げ]アンナ・グリゴリエヴナ・ドストイエフスカヤにおくる
[#改ページ]

 作者より

 この物語の主人公アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマゾフの伝記にとりかかるに当たって、自分は一種の懐疑に陥っている。すなわち、自分は、このアレクセイ・フョードロヴィッチを主人公と呼んではいるが、しかし彼がけっして偉大な人物でないことは、自分でもよく承知している。したがって、『アレクセイ・フョードロヴィッチをこの物語の主人公に選ばれたのは、何か彼に卓越したところがあってのことなのか? いったいこの男が、どんなことを成し遂げたというのか? 何によって、誰に知られているのか? いかなる理由によって、われわれ読者は、この人間の生涯の事実の研究に時間を費やさなければならないのか?』といったたぐいの質問を受けるにきまっていることは、今のうちからよくわかっている。
 この最後の質問は最も致命的なものである。それに対しては、ただ、『御自分でこの小説をお読みになられたら、おそらく納得なさるであろう』としか答えられないからである。ところが、この小説を一通り読んでも、なおかつ納得がゆかず、わがアレクセイ・フョードロヴィッチの注目すべき点を認めることができないといわれた暁には、どうしたものか? こんなことを言うのも、実はまことに残念ながら、今からそれが見え透いているからである。作者にとっては、確かに注目すべき人物なのであるが、はたしてこれを読者に立証することができるだろうか、それがはなはだおぼつかない。問題は、彼もおそらく活動家なのであろうが、それもきわめて曖昧《あいまい》で、つかみどころのない活動家だというところにある。もっとも、今のような時世に、人間に明瞭さを要求するとしたら、それこそ要求するほうがおかしいのかもしれぬ。ただ一つ、どうやら確実らしいのは、この男が一風変わった、むしろ奇人に近い人物だということである。しかし、偏屈とか奇癖とかいうものは、個々の特殊性を統一して、全般的な乱雑さのうちに、ある普遍的な意義を発見する能力を、与えるというよりは、むしろ傷つける場合が多い。奇人というものは、たいていの場合に、特殊で格別なものである。そうではないだろうか?
 そこで、もしも読者がこの最後の主張に賛成なさらずに、『そうではない』とか、『必ずしもそうではない』と答えられるとすれば、自分はむしろわが主人公アレクセイ・フョードロヴィッチの価値について大いに意を強うする次第である。というのは、奇人は『必ずしも』特殊なものでも、格別なものでもないばかりか、かえって、どうかすると彼が完全無欠の心髄を内にもっているかもしれず、その他の同時代の人たちは――ことごとく、何かの風の吹きまわしで、一時的にこの奇人から引き離されたのだ、といったような場合がよくあるからである……。
 それにしても、自分は、こんな、実に味気ない、雲をつかむような説明にうき身をやつすことなく、前口上などはいっさい抜きにして、あっさりと本文に取りかかってもよかったであろう。お気にさえ召せば、通読していただけるはずである。ところが、困ったことには、伝記は一つなのに、小説は二つになっている。しかも、重要な小説は第二部になっている――これはわが主人公のすでに現代における活動である。すなわち、現に移りつつある現在の今の活動なのである。第一の小説は今を去る十三年の前にあったことで、これはほとんど小説《ロマン》などというものではなく、単にわが主人公の青年時代の初期の一刹那《いっせつな》のことにすぎない。そうかといって、この初めの小説を抜きにすることはできない。そんなことをすれば、第二の小説の中でいろんなことがわからなくなってしまうからである。しかも、そうすれば自分の最初の困惑はいっそう紛糾してくる。すでにこの伝記者たる自分自身からして、こんなに控え目で、つかみどころのない主人公には、一つの小説でもよけいなくらいだろうと考えているのに、わざわざ二つにしたら、いったいどんなことになるであろう。それにまた、自分のこの不遜《ふそん》なやり口を、どうして説明したらよいであろう?
 自分はこの問題の解決にゆき悩んだあげく、ついに、全く解決をつけずにいこうと決心した。もとより炯眼《けいがん》な読者はすでに、そもそもの最初から私がそんなことを言いそうだったと、早くも見抜いてしまって、ただ、――なんのために、むやみに役にも立たない文句を並べて、貴重な時間を浪費するのかと、私に対して腹を立てられたであろう。しかし、これに対しては、はっきりとこうお答えしよう。すなわち自分が役にも立たない文句を並べて、貴重な時間を浪費したのは、第一には儀礼のためであり、第二には、『何はともあれ、あらかじめ何か先手を打っておこう』という、ずるい考えによるのであると。
 もっとも、自分は、この小説が、『本質的には完全な一体でありながら』おのずからにして二つの物語に分かれたことを喜んでさえもいるのである。読者が最初の物語を通読された以上、第二の物語に取りかかる価値があるかないかは、すでにおのずから決定されるであろう。いうまでもなく、誰ひとり、なんらの拘束を受けているわけではないので、最初の物語の二ページくらいのところから、もう二度とあけてみないつもりで、この本を放り出しても、いっこうにさしつかえはないのである。しかし、公平な判断を誤るまいとして、ぜひとも最後まで読んでしまおうというようなデリケートな読者もあるのではないか。たとえば、ロシアのあらゆる批評家諸君がそれである。かような人たちに対しては、なんといっても気が楽である。つまり、彼らがどんなに精密で良心的であろうとも、やはりこの小説の第一の插話の辺で本を投げ出すのに最も正当な口実を提供しておくわけである。さあ、これで序文は種切れだ。自分はこれがよけいなものであるということに全く同感ではあるが、せっかくもう書いたことでもあるから、これはこのままにしておこう。
 さて、いよいよ本文にとりかかろう。
[#改ページ]

 第一篇 ある家の歴史


   一 フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマゾフ

 アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマゾフは、この郡の地主フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマゾフの三男で、父のフョードルは、今からちょうど十三年前に悲劇的な陰惨な最後を遂げたために、そのころ(いや、今でもやはりこちらでは時おり噂《うわさ》にのぼる)非常に評判の高かった人物であるが、この事件についてはいずれしかるべきところにおいてお話しすることにしよう。ここでは単にこの『地主』が(当地では彼のことをこう呼んでいたが、その実、彼は一生涯ほとんど自分の持ち村で暮らしたことがなかった)かなりちょいちょい見受けるには見受けるが、一風変わった型の人間であった、というだけにとどめておこう。つまり、やくざで放埒《ほうらつ》なばかりではなく、それと同時にわけのわからない人間のタイプ――もっとも、同じわけのわからない連中の中でも、自分の財産に関する細々した事務を、巧みに処理することができて、しかも、それだけが身上かと思われるようなたぐいの人間であった。たとえばフョードル・パーヴロヴィッチはほとんど無一物で世間へ出て、地主といってもきわめてささやかなものなので、よその家へ行って食事をしたり、居候に転がりこむことばかり狙っていたが、死んだ時には現金で十万ルーブルものこしていたことがわかった。それだのに、彼は依然として、一生涯を、郡内きっての最もわからずやの狂気じみた男の一人として押し通してしまったのである。くり返していうが、けっしてばかであったというわけではない。かえって、こういう狂気じみた人間の大多数は、かなり利口で狡猾《こうかつ》である、――つまり、わけがわからないのである。しかも、そこにはなんとなく独特な国民的なところさえうかがわれる。
 彼は結婚して、三人の子を挙《あ》げた。――長男のドミトリイは先妻、次の二人、すなわちイワンとアレクセイとは後妻の腹から生まれた。フョードルの先妻は、やはりこの郡の地主でミウーソフという、かなり裕福で名門の貴族の出であった。持参金つきで、おまけに美しく、そのうえてきぱきした聡明《そうめい》な娘――こういったたぐいの娘は現代のわが国ではいっこうめずらしくないが、そろそろ前世紀においても、現われかかっていた――が、あんな取るにも足らない『やくざ者』――そのころ、誰もがこう呼んでいた――とどうして結婚することができたのか、それについてはあまり詳しく説明しないことにする。自分はまだ前世紀の『ロマンチックな』時代に生まれた一人の娘を知っていた。この娘は何年かのあいだ、一人の紳士に謎めいた恋をしていたが、この相手と泰平無事にいつなんどきでも結婚することができるのに、結局どうにもならないような障害を勝手に考え出して、嵐の夜に、断崖のような高い岸から、かなりに深い激流に身を投じて死んでしまった。それというのも全く自分の気まぐれによることで、ひたすらシェークスピアのオフェリヤにあやかりたいためであった。それで、もし彼女がずっと以前から目をつけて、惚《ほ》れこんでいたこの断崖が、それほど絵のように美しくなくて、その代わりに平凡な低い岸ででもあったならば、おそらく、こんな自殺などというさたは全く起こらなかったであろう。これはまぎれもない実話であるが、最近二百年なり三百年のあいだに、このような、ないしはこれと類
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