った)、自分で、またもとの小屋へ追いやってしまったことであろう。なにしろ、子供はやはり放蕩《ほうとう》の邪魔になるからである。ところが、偶然にも、アデライーダ・イワーノヴナの従兄《いとこ》で、ピョートル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフという人がパリから帰って来た。この人は、そののち長年、ずっと外国に暮らしたほどで、そのころはまだかなりに若かったが、ミウーソフ家の人たちの中でも異色があり、都会的で、外国的な教養があり、のちには一生涯、ヨーロッパ人になりすましたばかりか、晩年には、四、五十年代によくあった自由主義者の一人となったほどであった。その華やかなりしころを通じて、彼は同時代における内外の最も進歩的な、多くの自由主義者たちと交渉があり、プルードンやバクーニンをも個人的に知っており、遊歴時代の終わりごろには、四十八年のパリ二月革命の三日間のことを思い出して、自分も市街阻絶《バリケード》戦に参加した一人であると言わぬばかりにほのめかしながら物語るのが大好きであった。これこそ彼の青年時代における最も楽しい思い出の一つであった。
 彼は昔の標準でいうと、千人ほどの農奴に相当する独立した財
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