心を動かされたらしいが、その新しい信仰に改宗するほどの気持にはなれなかった。『神信心』の書物を耽読《たんどく》したことから、彼の人相にはなおさらに大きなもったいらしさが加わった。
 おそらく、彼は神秘的な傾向を持っていたのかもしれぬ。ところで、六本指の嬰児の出生とその死亡に引き続いてまるでわざとのように、もう一つ奇怪な、思いもよらぬ、突飛な事件が重なって、彼自身が後日言ったように、彼の魂に『烙印《らくいん》』を捺《お》したのである。それはこうである、ちょうど六本指の赤ん坊を葬ったその日のこと、マルファ・イグナーチエヴナがふと夜半に眼をさますと、生まれ落ちたばかりの嬰児の泣き声らしいものを耳に留めたのだ。彼女は愕然《がくぜん》とし良人を呼び起こした。こちらは耳を澄ましていたが、どうもこれは誰かうなっているようだ、しかも、『女らしいぞ』と言った。彼は起き上がって着物を着た。それはかなり暖かい五月の夜であった。上がり段へ出てみると、うめき声は明らかに庭の方から聞こえてくる。しかし庭は夜になると屋敷のほうから錠をおろしてしまううえに、ぐるりを高い堅固な塀で取り囲んであるから、中へはいる口はないはずであった。グリゴリイは家へとって返すと、提燈《ちょうちん》を点《とも》して庭口の鍵を持った。そして妻が、自分にはどうしても子供の泣き声らしく聞こえる、きっと死んだ赤ん坊が自分を呼んで泣いているのだと思いこんで、ヒステリイのようにおびえているのには眼もくれず、黙ったまま庭へ出て行った。ここで彼は明らかに、その声は耳門《くぐり》からほど近く、庭の中に立っている湯殿の中から漏れてくるのであって、疑いもなく女のうめき声だということを確かめた。湯殿の戸をあけて中をのぞいた時、彼はその光景の前に立ちすくんだ。いつも街をうろつき回って、リザヴェータ・スメルジャシチャヤというあだ名で町じゅう誰知らぬ者もない宗教狂女が、邸内の湯殿へはいりこんで、たった今赤ん坊を生み落としたばかりのところであった。赤ん坊は女のそばにころがっており、産婦は気息奄々《きそくえんえん》たるありさまであった。彼女は何ひとこと物を言わなかったが、それは言いたくても、もう口がきけないからであった。しかしこの事件については特別に説明しなければならない……

   二 リザヴェータ・スメルジャシチャヤ

 ここに、グリゴリイが以前からいだいていたある不愉快なけがらわしい疑惑を、徹底的に裏書きして、彼の心を震憾《しんかん》させた特別の事情があったのである。このリザヴェータ・スメルジャシチャヤは恐ろしく背の低い娘で、死んだ後まで多くの信心深い町の老婆たちに、『二アルシンと少しっきゃなかった』などと感慨深そうに述懐されたほどである。二十歳になる彼女の健康そうに赤味を帯びただだっ広い顔は、全く白痴の相をしていた。その目つきは柔和ではあったが、じっとすわって気味が悪かった。彼女は生涯、夏冬ともはだしに麻の襦袢《じゅばん》一枚で歩き回っていた。非常に濃《こ》い髪の毛はほとんど漆黒で、緬羊《めんよう》の毛のように縮れて、大きな帽子かなんぞのように彼女の頭に載っていた。そのうえ、いつも地面やごみの中に寝るものだから土や泥によごれて、木の葉や木っぱや、鉋屑《かんなくず》などがくっついていた。零落した宿なしで病身の父親イリヤはひどい飲んだくれで、もう長年のあいだ、やはりこの町の町人で物持ちの家に雇人のようにして住みこんでいる。リザヴェータの母親はもうとうに亡くなっていた。いつも病気がちでじりじりしていたイリヤは、リザヴェータが帰って来るたんびに、むごたらしく責め折濫した。しかし彼女は神聖な白痴、宗教狂《コロージワイ》として町じゅうの世話を受けて暮らしていたので、あまり家へは寄りつかなかった。イリヤの主人夫妻や、イリヤ自身や、その他、おもに商人や商家の内儀などといった、あわれみ深い多くの町の人たちが、リザヴェータに襦拌ひとつきりというような見苦しい服装をさせておくまいと何度骨折ってみたかしれず、冬になればきまって外套《がいとう》をはおらせたり、長靴をはかせたりしたものだ。しかし彼女は、たいていおとなしく着せられるがままになっているが、いざその場を立ち去ると、きっとどこか、おもに寺院の入口などで、せっかく自分に恵まれた物を何から何まで、――頭巾《ずきん》であれ、腰巻きであれ、外套であれ、長靴であれ、一つ残らずその場に脱ぎすてて、また以前《もと》の襦袢ひとつになって、はだしのまま立ち去るのであった。一度こんなことがあった。当県の新任の知事が何かのついでにこの町を視察したおり、リザヴェータの姿を認めて、その美しい感情をひどく傷つけられた。なるほどそれは、報告のとおり宗教狂女《コロージワヤ》だと納得はしたけれど、それにして
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