のでございます。それも、たった一人あとに残った子でございました。ニキートカとのあいだに四人の子供をもうけましたが、どうもわたくしどもでは子供が育ちません。どうも、神父様、育たないのでございます。上を三人亡くしたときには、それほど可哀そうにも思いませなんだが、こんどの末子だけは、どうにも忘れることができません。まるでこう目の前に立っておるようで、どかないのでございます。まるで胸の中も涸《ひ》あがってしまいました、あれの小さい着物を見ては泣き、シャツや靴を見ては泣くのでございます。あの子が後に残していったものを、一つ一つ広げて見ては、おいおい泣くのでございます。そこで配偶《つれあい》のニキートカに、どうか巡礼に出しておくれと申しましたのでございます。配偶《つれあい》は馬車屋でございますが、さほど暮らしに困りませぬので、神父様、さほど暮らしには困りませぬので。ひとり立ちで馬車屋もいたしておりまして、馬も車もみんな自分のものでございます。けれど今となって、こんな身上がなんの役に立ちましょう? わたくしがおりませんでは、きっとうちのニキートカはむちゃなことをしているに違いありません。それはもう確かな話でござりますよ。以前もそうでございました。わたくしがちょっと眼を放すと、すぐもうぐらつくのでございますよ、でも今ではあの人のことなど考えはいたしません。もう家を出てから三月になります。わたくしはすっかり忘れてしまいました、何もかも忘れてしまって、思い出すのもいやでございます。それにいまさらあの人といっしょになったところで、なんといたしましょう。わたくしはもうあの人とは縁を切ってしまいました。誰とも縁を切ってしまいました。自分の家や持ち物なんぞ見たいとも思いませぬ。なんにも見たいとは思いませぬ!」
「のう、おっかさん」と長老が口をきった。「昔の偉い聖人様が、おまえと同じように寺へ来て泣いておる母親を御覧になられてな、それはやっぱり、神様に召された一人子を思って泣いている母親じゃったのじゃが、聖人様の言われるには、『いったいおまえは小さい子供が神様の前では、わがままいっぱいにしておるということを知らぬのか? 幼い子供ほど神の国でわがままいっぱいなものはないのじゃ。子供らは神様に向かって、あなたはわたしたちに生命を恵んでくださったけれど、ちらと世の中をのぞいただけで、もう取り上げておしまいになった、などとだだをこねて、今すぐ天使の位を授けてくだされとせがむのじゃ。じゃによっておまえも喜ぶがよい、泣くことはないのじゃ、おまえの子供はいま神様のおそばで、天使たちといっしょに暮らしているのじゃから』こうその昔、聖人が泣いておる母親を諭《さと》された。それは偉い聖人のことじゃから、間違ったことを言われるはずがない。そなたの子供も今はきっと、神様の御座所の前で遊び戯《たわむ》れながら、そなたのことを神様に祈っておることじゃろう。それじゃによって、そなたも泣かれずに、喜ばねばならんのじゃ」
女は片手で頬杖をつきながら、伏し目になって聞いていた。彼女はほうっとため息をついた。
「それと同じことを言って、ニキートカもわたくしを慰めてくれました。おまえ様のおことばとそっくりそのままでございました。『わけのわからんやつじゃよ、何を泣くことがあるんだ、うちの坊やも今ごろはきっと神様のそばで、天使たちといっしょに歌でもうたっておるにきまっておるよ』配偶《つれあい》はこう言いながら、そのくせ、自分でも泣いておるのでございます。見ると、やっぱりわたくしと同じように、泣いておるのでございますよ。で、わたくしはそう言ってやりました。『おまえさん、それはわしも知っているよ、あの子は神様のそばでなくては、ほかにいるところはありませんさ。けれど、今ここに、わしのそばにはいっしょにおらん、前のようにここに坐ってはおらんだもの!』とね。ほんとに、わたくしはほんの一ぺんきりでも、あれが見とうございます。ほんのちょっとでよいから、あれが見たいのでございますよ。そばへ寄ったり声を掛けたりできなくてもかまいませぬ。あれが以前のように、戸外で遊んでいるところや、こちらへやって来て、あの可愛らしい声で、『母ちゃん、どこにいるの?』って呼ぶのを、どこかの隅に隠れておって、ほんのちらりとでも、見たり聞いたりしとうございます。あの小さい足で部屋の中を歩くのが聞きとうございます。あの小さい足でことことと歩くのを、たった一度でも聞きたい。以前よくわたくしのところへ走って来て、叫んだり笑ったりしましたが、わたくしはたった一度あれの足音が聞きたい、どうしても聞きたいのでございます。けれども神父様、もうあれはおりません、あれの声を聞くときはもうございません! これここにあれの帯がござりますが、あれはもうおりません
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