ワり何かしら人か物かがどこかに突っ立っているといったあんばいなのである。たとえば、よくあることだが、何か眼の前へ突き出ているのに、話か仕事に夢中になっていて長いあいだ気がつかないでいるけれど、なんだか妙に気持がいらいらして、まるで苦しくさえなる、そのうちにやっと気がついて、その邪魔物を取りのぞくのだが、それはたいていの場合つまらないばかげた物で、――どこかとんでもない場所へ置き忘れた品物とか、床の上へ落ちたハンカチとか、書棚へかたづけ忘れた書物とか、そんなような物である。やがてイワン・フョードロヴィッチは恐ろしく不快ないらだたしい気分で、父の家までたどりついたが、耳門《くぐり》からおよそ十五歩ばかり離れたところから、ふと門を眺めた時、自分の心を苦しめ悩ましていた原因をたちまち察知したのである。
 門そばのベンチに、下男のスメルジャコフが腰をかけて、夕涼みをしていたのだ。イワン・フョードロヴィッチはそれを一目見るなり、自分の心の底には、この下男のスメルジャコフが潜んでいた。それがなんとも不愉快でたまらなかったのだ、ということに気がついた。すると、すべてが急にぱっと照らし出されて、明瞭になった。先刻アリョーシャがこのスメルジャコフに出会ったことを話した時、何かしら暗い忌まわしいものが彼の胸を突き通して、すぐに反射的に憎悪の念をよびさましたのであった。それからは話に夢中になってスメルジャコフのことはしばらく忘れられていたのだが、それでもやはり心の底に残っていたため、アリョーシャと別れて、ひとり家路につくと同時に、この忘れられていた感覚が不意にまた頭を持ち上げたのである。『いったいこんなくだらないやくざ者が、どうしてこんなにおれの心を騒がせるんだろう』と、彼に耐えがたい憤懣《ふんまん》を覚えながらこう考えた。
 それはこうである、近ごろイワン・フョードロヴィッチはこの男がひどく嫌いになってきた。それがこの二、三日は取りわけひどくなったのである。この人間に対するほとんど憎悪に近い感情が、日一日と募ってくるのを彼自身でも気づき始めた。こうした憎悪がこれほど険悪な経過をとってきたのは、最初イワン・フョードロヴィッチがこの町へ帰って来た当初とは全然反対な事態が生じたためかもしれない。当時イワン・フョードロヴィッチはスメルジャコフに対して、不意に一種特別な同情を寄せたが、後には彼を非
前へ 次へ
全422ページ中397ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
ドストエフスキー フィヨードル・ミハイロヴィチ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング