百足が、意地の悪い毒虫め、ちくりとおれの心臓を刺したんだよ。わかるかい? おれはじろりと相手を一瞥《いちべつ》した。おまえはあの女《ひと》を見たかい? 美人だろう。だがあの時の美しさはそんな風の美しさではなかったのだ。あの女《ひと》が美しかったのは、あの女《ひと》がこのうえもなく高潔であるに引き替え、おれは一個の卑劣漢にすぎなかったからだ。あの女《ひと》が父の犠牲《ぎせい》として、寛容の絶頂にあるに引き替え、おれは一匹の南京虫《ナンキンむし》に等しいからなんだ。ところが、その卑劣漢で南京虫にすぎないおれのために、あの女《ひと》は身も心もいっさいをあげて、生殺与奪の権を握られているのだ。追いつめられてしまっているのだ。おれはあからさまに言うが、この考えは――この毒虫の考えは、おれの心臓をしっかりとつかんでしまって悩ましさのために心臓が溶けて流れ出さないばかりだった。もはやなんの争いもなさそうだった。南京虫か毒蜘蛛《どくぐも》のように、情け容赦もなく行動に移るばかりだ……。おれは息が止まる思いだった。ところがまた、これをどこまでも高潔な方法でかたづけて、誰にもそれを知らさない、いや誰も知ることができないように、すぐあくる日にでも結婚の申しこみに乗りこんでもよかったわけだ。なぜって、おれは卑しい欲望を持った人間であるけれど、心は潔白なんだからさ。ところが突然その瞬間に、誰やらおれの耳元でささやくやつがあったんだよ。『だが、あす結婚の申しこみに行ったとしても、あの女《ひと》はおまえの前へ顔出しもしないで、御者に言いつけておまえを邸から突き出してしまうだろうぜ、町じゅうに触れ回すがいい、おまえさんなぞちっともこわくないから、と言ったらどうだろう!』おれはちらと令嬢を眺めた。おれの心の声は嘘をつかなかった。たしかにそうだ、きっとそうするに決まっている。おれの襟髪をつかんで放り出すということは、もう今からその顔色でちゃんと読めるのだ。そこで、おれの心の中にはまたもや毒念が湧き返って、卑劣きわまる、豚か商人のような一幕が演じてみたくなったのだ。つまり、あざけるような眼つきでその女を見やりながら、相手が自分の前に突っ立っているあいだに、商人でもなければ使わないような口上で、いきなり女をののしってやりたくなったんだ。
『あの四千ルーブルですって! ありゃあ冗談に言ったのですよ、いったい
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