あの時のことばを覚えていて、もしやと思って忍び足について来たので、やっと危いところでそれを見つけたのだ。転げるように駆けこみざま、父に飛びかかって、後ろから抱きとめたため、銃は天井へ向けて発砲されて、幸い誰も怪我《けが》をしなかった。他の連中も駆けつけると、中佐をとらえて銃を取り上げて、両手を捕まえていた……これはあとですっかり寸分たがえずに聞いたことだ。おれはそのとき家にいたのだ。ちょうどたそがれどきで出かけるつもりで着換えもし、髪もなでつけ、ハンカチには香水までつけて、帽子を手にしたところへ、不意に扉があいて――おれの眼の前へ、しかも、おれの部屋へ、カテリーナ・イワーノヴナが姿を現わしたのだ。
妙なことがあるもので、その時あの女がおれのとこへはいったのを、往来から見ていた者が一人もなかったのだ。それで町では、これはなんの噂にものぼらなかった。それにおれは、ある二人の官吏の後家さんの部屋を借りていたが、もうだいぶの年の婆さんで、よくおれの世話をしてくれたし、なかなか丁寧な老婆で、何事によらずおれの言いなりになっていたから、おれの言いつけで、その後もまるで鉄の棒かなんぞのように黙っていてくれた。もちろん、おれはすぐすべてのことを了解した。令嬢は、はいってくるなり、まともにおれの顔を見つめるのだ。暗色の眼はきっとして、むしろ大胆不遜《だいたんふそん》に光っていたが、しかし唇とそのまわりには、何かためらうような色がみえた。
『姉から聞いたのですが、もしわたくしが……こちらへ自分でいただきにまいりますれば、四千五百ルーブルのお金をくださいますそうですね、……わたくしまいりました……さあ、どうぞお金をくださいまし!……』それだけ言ったが、あとが続かず、息をつまらせて、びっくりしたように、声をとぎらせてしまった。口尻とそのまわりの筋肉がぴくぴく震えだした。おいアリョーシカ、聞いてるのか、それとも眠っているのかい?」
「ミーチャ、僕は兄さんが本当のことを残らずお話しなさることを知っています。」アリョーシャは心を波立たせながら答えた。
「その本当のことを話すよ、すっかり本当にありのまま話すとすれば、自分のことを棚へ上げたりはしないよ。まず初手に浮かんだ考えはカラマゾフ式なものだったよ。おれはある時、百足《むかで》にかまれて二週間ほど熱を出して寝こんだことがあった。ところが、その
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