自分のような道楽者ではないが、目のあたりに行なわれるすべての不行跡を見、かつその裏の裏まで知り尽くしていながら、忠順の心からいっさいを見のがして反抗しない、しかし何よりも大切な点は、けっして非難をしないことで、現世のことにしろ来世のことにしろ、なんら脅かすようなことを言わないが、すわ[#「すわ」に傍点]という場合には、自分を守ってくれる――誰から? 誰からかはわからないけれど、しかし、危険な恐ろしい人間からである。つまり、昔なじみの親しい『自分以外の』人間が、ぜひいなくてはならない、心の疼むようなときにその男を呼び寄せる、それもただじっとその顔を見つめて、気が向いたら何か一つ二つ、それも全く縁のないむだ口をたたき合うくらいが関の山で、もし相手が平気な顔をして別に腹も立てないようなら、それでなんとなく心が休まるし、もし腹を立てれば、よけい心がめいろうというものである。こんなこともあった(もっともそれはごくたまさかのことだが)、フョードル・パーヴロヴィッチがそれも夜中に傍屋《はなれ》へ行って、グリゴリイをたたき起こすと、ちょっとでいいから来てくれという。こちらが起きて行ってみると、フョードル・パーヴロヴィッチは思いきりくだらない話をちょっとして、すぐにさがらしてしまう。どうかすると別れぎわに、ひやかしたり冗談口をたたいたりすることもある。そして御当人はぺっと唾《つば》を吐いて横になる。と、もう聖人のような眠りに落ちてしまうのである。アリョーシャが帰って来たときも、ちょっとこれに似寄ったことがフョードル・パーヴロヴィッチの心に起こった。アリョーシャは『いっしょに住んで、何もかも見ておりながら、ちっともとがめ立てをしない』という点で、彼の『心を突き刺した』のである。あまつさえ、アリョーシャは、父にとってついぞこれまで覚えのないものをもたらした。それは、この老父に対して少しも軽蔑の念をいだかないばかりか、反対に、それほどの価値もない父にいつも優しく、しかも全く自然ですなおな愛慕の情を寄せるのであった。これまで家庭というものを持たず、ただ『邪淫《じゃいん》』のみを愛してきた、老放蕩児にとって、こういうことはすべて思いもかけぬ賜物であった。アリョーシャが去って行ったのち、彼は今まで理解しようとも思わなかったあるものを理解した、と肚《はら》の中で告白した。
グリゴリイがフョードル
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