人はこの家を去らなかった。そこでフョードル・パーヴロヴィッチは夫婦に対してわずかな給金を定めて、それをきちんきちんと支払っていた。それにグリゴリイは、自分が主人に対して、異論のないある勢力をもっていることを知っていた。そして彼がこう思ったのは、けっして思い違いではなかった。狡獪《こうかい》で片意地な道化者のフョードル・パーヴロヴィッチは、彼自身の言いぐさのように『世の中のある種の事柄に対しては』なかなかずぶとい気性を持っていたけれど、ある『別種な世の中の事柄』に対しては自分でも驚くほど、から意気地がなかった。それがどんな事柄であるかは、自身でも知っていて、いろいろなことに恐れをいだいていたのである。世の中には、ある種の事柄に対して、十分警戒しなければならない場合がある。そんなとき身辺に誰か忠実な人間がいなくては心細かったが、グリゴリイは忠実という点では無類な人間であった。フョードル・パーヴロヴィッチはこれまで世の中を渡る間にも、幾度となくなぐられそうな、しかもこっぴどくなぐられそうな場合にぶつかったこともよくあったが、そういうときには、いつもグリゴリイが彼を救い出した。もっともそのあとで毎回お説教を聞かせるのが常であったが。しかしフョードル・パーヴロヴィッチも、打ったりなぐったりされるだけなら、さして恐ろしくもなかったはずだが往々、極端な、ときにはむしろ複雑微妙な場合さえよくあったので、フョードル・パーヴロヴィッチは誰か忠実な人間を自分の身辺に置きたいというただならぬ要求を、突然不思議にも瞬間的に心に感じるのであった。しかも彼自身でさえ、その理由を明らかにすることはできなかった。それはほとんど病的といってもいい状態であった。放埒《ほうらつ》きわまりなく、しかもその淫欲のためにはしばしば、害悪な虫けらのように残忍非道なことをしてのけるフョードル・パーヴロヴィッチが、ときどき、酔っ払ったおりなどに、不意と心の中に精神的の恐怖と、非道徳的な震駭《しんがい》を感じるのであったが、それはほとんど生理的に彼の魂に反応した。『そんなときわしは、魂が咽喉《のど》の辺で震えておるような気持だ』彼はときにこんなことを言い言いした。こういう瞬間に彼は、自分に信服した、しっかりした男が自分の身近に、同じ部屋の中ではなくても、せめて傍屋《はなれ》のほうにでもいて欲しかった。その男は、けっして
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