産をもっていた。彼の立派な領地はこの町を出はずれたところにあって、ここの有名な修道院の地所と境を接していた。ピョートル・アレクサンドロヴィッチはまだほんの若い時分に遺産を相続するやいなや、よくはわからないが、何か川の漁業権とか、森の伐採権とかのことで、この修道院を相手にはてしのない訴訟を起こしたものであった。彼は『僧侶』たちを相手どって訴訟を起こすのを、公民としてまた教養人としての義務だと心得ていた。ところで、かれはアデライーダ・イワーノヴナのことは、もちろん今もなお記憶にとどめ、かつては心を引かれたこともあったが、この女の身の上をすっかり聞かされ、またミーチャという子供ののこっていることを知るとフョードル・パーヴロヴィッチに対する青年らしい義憤と侮蔑《ぶべつ》を感じながらも、この事件にかかわりあうこととなったのである。そこで、はじめてフョードル・パーヴロヴィッチなる者を知った。彼はいきなり、子供の養育を引き受けたいと申しいでた。彼がその後、フョードル・パーヴロヴィッチの特徴を示す好資料だといって、長いあいだ語りぐさとしたところによれば、彼がミーチャのことを話しだしたとき、相手はしばらくのあいだ、いったいどんな子供のことが話題にのぼっているのか、さっぱり合点がいかぬといった風で、自分の家のどこかにそんな小さな息子がいたのかと、びっくりしたような顔つきをしてみせたとのことであった。たとい、ピョートル・アレクサンドロヴィッチの話に誇張があるにしても、しかもなお真実らしい何ものかがあったに相違ない。しかし、事実において、フョードル・パーヴロヴィッチは一生涯、何かだしぬけに人を驚かせるような芝居を打ってみせるのが大好きで、それも、時としては、別になんの必要もないどころか、たとえば、今の場合のように、みすみす自分の損になることさえいとわないのであった。もっとも、こうした傾向は、ひとりフョードル・パーヴロヴィッチばかりに限らず、多くの人、ときにはかなりに聡明な人にさえも、ありがちなものである。ピョートル・アレクサンドロヴィッチは熱心に事を運んで、フョードル・パーヴロヴィッチと共に子供の後見人にまでなってやった。というのは、やはり母親が亡くなっても小さな持ち村や、家作や地所などが残っていたからである。こうしてミーチャはこの又|叔父《おじ》のところに引き取られたが、この人は自分の家
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