業』はすぐやんで、いつでも病人はしばらくのあいだ落ち着くものだった。こうした事実は子供の自分をひどく驚かせた。しかしそのころ、地主の誰彼や、ことに町の学校の先生などに根掘り葉掘り聞いてみたら、あれは仕事をするのがいやであんなまねをするだけで、適当な非常手段を用いさえすれば、いつでも根絶することのできるものだと説明して、それを裏書きするようないろいろの珍談を持ちだして聞かせてくれた。ところが後日、専門の医者から、それはけっしてお芝居ではなくて、わがロシアに特有のものらしい恐ろしい婦人病だと聞いて、二度びっくりした次第である。これはわが国農村婦人の惨澹《さんたん》たる運命を説明する病気で、なんら医薬の助けを借りないむちゃな難産をした後、あまりに早く過激な労働につくことから生ずるものであるが、その他、か弱い女性の常として、とても耐えられるものでない、絶体絶命の悲しみとか、折檻《せっかん》とかいうようなものも、その原因になるとのことである。病人を聖餐のそばへ連れて行くやいなや、今まで荒れ狂ったり、じたばたもがいていたものが、不意にけろりとなおる不思議な事実も、それはただのお芝居で、ことによったら『売僧《まいす》ども』の手品かもしれぬ、とのことだったけれど、これもたぶんきわめて自然に生じたことであろうと思う。おそらく病人を聖餐のそばへ連れて行く女たちと、ことに病人自身が聖餐のそばへ寄って頭をかがめさえすれば、病人に取り憑いている悪霊が、どうしても踏みこたえることができないものと、一定の真理かなんぞのように、信じきっているのであろう。それゆえ必然的な治癒《ちゆ》の奇跡を期待する心と、その奇跡の出現を信じきっている心とが、聖餐の前にかがんだ瞬間、神経的な精神病患者の肉体組織に、非常な激動を引き起こすのであろう(否、引き起こすべきである)。かようにして奇跡は、わずかのあいだながら、出現するのであろう。長老が病人を袈裟でおおうやいなや、ちょうどそれと同じ奇跡が起こったのである。
長老のそば近くひしめいていた多くの女たちは、その瞬間の印象によびさまされた感動に随喜の涙を流した。なかにはその法衣の端でも接吻しようとして押し寄せる者もあれば、何やら経文を唱える者もあった。長老は一同を祝福して、二、三の者とことばをかわした。『憑かれた女』は彼もよく知っていた。これはあまり遠くない、修道院か
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