うとしたが、夫人は不機嫌になつて、どうぞ自分にだけは構はないで貰ひたいと言ひ放つた。
     ――――――――――――
 セルギウスが山籠をしてからもう六年経つてゐる。セルギウスは当年四十九歳になつてゐる。山籠の暮しは却々《なか/\》つらい。断食をしたり、祈祷をしたりするのがつらいのではない。そんなことはセルギウスの為めには造作《ぞうさ》はない。つらいのは、思も掛けぬ精神上の煩悶があるからである。それに二様の原因がある。その一つは懐疑で、その一つは色慾である。
 セルギウスは此二つのものを、二人の敵だと思つてゐる。その実は只一つで、懐疑の剋伏《こくふく》せられた瞬間には色慾も起らない。併しセルギウスは兎に角悪魔二人を相手にして戦ふ積りで、別々に対抗するやうにしてゐる。
 その癖二人の敵はいつも聯合して襲つて来るのである。
 セルギウスはこんな事を思つてゐる。「あゝ。主よ。なぜあなたはわたくしに信仰を授けて下さいませんか。色慾なんぞは、聖者アントニウス、その外の人々も奮闘して剋伏しようとしたのです。併し信仰だけは聖者達が皆持つてゐました。それにわたくしは或る数分間、乃至或る数時間、甚だしきに至つては或る数日間、全く信仰と云ふものを無くしてゐます。世界がどんなに美しく出来てゐたつて、それが罪の深いものであつて、それを脱離しなくてはならないものである限は、なんの役に立ちますか。主よ。あなたはなんの為めにそんな誘惑を拵へました。あゝ。誘惑と云ふものも考へて見れば分らなくなります。わたくしが今世界の快楽を棄てゝ、彼岸に何物かを貯へようとしますのに、その彼岸に若し何物も無かつた時は、これも恐しい誘惑ではございませんか。」こんな風に考へてゐるうちに、セルギウスは自分で自分が気味が悪く、厭になつて来た。「えゝ。己は人非人だ。これで聖者にならうなぞと思つてゐるのは何事だ。」セルギウスはかう云つて自分を嘲《あざけ》つた。そして祈祷をし始めた。
 ところがセルギウスは祈祷の最初の文句を口に唱へるや否や、心に自分の姿が浮んだ。それは前に僧院にゐた時の姿である。法衣《はふえ》を着て、僧帽を被《かぶ》つた威厳のある立派な姿である。セルギウスは頭を掉《ふ》つた。
「いや/\。これは間違つてゐる。これは迷だ。人を欺くことなら出来もしようが、自ら欺くことは出来ぬ。又主を欺くことも出来ぬ。なんの己に威厳なぞがあるものか。己は卑い人間だ。」かう思つてセルギウスは法衣の裾をまくつて、下穿《したばき》に包まれてゐる痩せた脚を眺めた。それから裾を下して、讃美歌集を読んだり、手で十字を切つたり、額を土に付けて礼をしたりし出した。セルギウスは「此|床《とこ》我が墓なるべきか」と読んだ。それと同時に悪魔が自分に囁くやうに思はれた。「独寝《ひとりね》の床は矢張墓だ、虚偽だ」と云ふ囁きである。それと同時にセルギウスが目の前には女の肩が浮んだ。昔一しよになつてゐた事のある寡婦の肩である。セルギウスは身震をしてこの想像を斥けようとした。そして読み続けた。今度は僧院の清規《せいき》を読んだ。それが済んで福音書を手に取つて開いた。すると丁度度々繰り返したので、諳誦する事の出来るやうになつてゐる文句が目の前に出た。「あゝ、主よ。我は信ず。我が不品行を救はせ給へ」と云ふ文句である。
 セルギウスは頭を擡《もた》げてあらゆる誘惑を払ひ除けようとした。譬へばぐらついてゐる物を固定して、均勢を失はせないやうにする如くに、セルギウスはゆらぐ柱を力にして自己の信仰を喚び起して、それと衝突したり、それを押し倒したりせぬやうに、そつと身を引いた。いつもの馬の目隠しのやうなものが、又自分の限界を狭《せば》めてくれた。それでセルギウスは強ひて自ら安んずる事が出来た。
 セルギウスが口には子供の時に唱へてゐた祈祷の詞が上つて来た。「あゝ。愛する主よ。我御身に願ふ」と云ふ詞である。此時セルギウスの胸が開けて、歓喜の情が起つて来た。そこで十字を切つて幅の狭いベンチの上に横になつた。これは安息の時の台にするベンチで、枕には夏の法衣を脱いでまろめて当てるのである。
 セルギウスはうと/\した。夢現《ゆめうつゝ》の境で、橇の鐸《すゞ》の音が聞えたやうに思つたが、それが実際に聞えたのだか、そんな夢を見たのだか分らなかつた。そのうち忽ち草庵の扉を叩く音がしたので、はつきり目が覚めた。それでも自分で自分の耳を疑つて、身を起して傾聴した。その時又扉を叩いた。ぢき側の扉である。それと同時に女の声がした。
「あゝ。聖者達の伝記で度々読んだ事があるが、悪魔が女の姿になつて出て来ると云ふのは本当か知らん。たしかに今のは女の声だ。しかもなんと云ふ優しい遠慮深い可哀《かはい》らしい声だらう。えゝ。」セルギウスは唾をした。「いや。あれは只己にさう思はれるのだ。」かう云つて、セルギウスは居間の隅へ歩いて往つた。そこには祈祷をする台が据ゑてある。セルギウスはいつも為馴《しな》れてゐる儀式通りに膝を衝いた。体を此格好にしたゞけでも、もう慰藉《なぐさめ》になり歓喜を生ずるのである。セルギウスは俯伏《うつふし》になつた。髪の毛が顔に掛かつた。もう大分髪の毛のまばらになつた額際《ひたひぎは》を、湿つて冷たい床に押し当てた。そして同宿であつた老僧ビイメンの教へてくれた、悪魔除の頌《じゆ》を読み始めた。それから筋張つた脛で、痩て軽くなつた体を支へて起き上つて、跡を読み続けようとした。併しまだ跡を読まぬうちに、覚えず何か物音がしはせぬかと耳を聳《そばだ》てた。
 四隣|闃《げき》として物音がない。草庵の隅に据ゑてある小さい桶の中へ、いつものやうに点滴が落ちてゐる。外は霧が籠めて真つ闇になつてゐて雪も見えない。墓穴の中のやうな静けさである。
 その時忽ち何物かゞさら/\と窓に触れて、はつきりした女の声が聞えた。目で見ないでも、美人だと云ふことが分るやうな声である。
「どうぞクリスト様に懸けてお願申します。戸をお開けなすつて。」
 セルギウスは全身の血が悉《こと/″\》く心の臓に流れ戻つて、そこに淀んだやうな気がした。息が詰つた。やう/\の事で、「而して主は復活し給ふべし、敵を折伏し給ふべし」と唱へた。地獄から現れた悪霊を払ひ除けようと思つたのである。
「わたくしは悪魔なんぞではございません。只あたりまへの罪の深い女でございます。あたりまへの意味で申しても、又形容して申しても、道に踏み迷つた女でございます。」初め言ひ出した時から、なんだかその詞を出す唇は笑つてゐるらしかつたが、とう/\こゝまで言つて噴き出した。それからかう云つた。
「わたくしは寒くて凍えさうになつてゐますのですよ。どうぞあなたの所にお入れなすつて下さいまし。」
 セルギウスは顔を窓硝子《まどガラス》に当てた。併し室内の燈火《ともしび》の光が強く反射してゐて、外は少しも見えなかつた。そこで両手で目を囲つて覗いて見た。外は霧と闇と森とである。少し右の方を見ると、成程女が立つてゐる。女は毛の長い、白い毛皮を着て、頭には鳥打帽子のやうな帽子を被つてゐる。その下から見えてゐる顔は非常に可哀らしい、人の好さゝうな、物に驚いてゐるやうな顔である。それがずつと窓の近くへ寄つて首を屈《かが》めて乗り出して来た。二人は目を見合せた。そして互に認識した。これは昔見た事のある人だと云ふのではない。二人はこれまで一度も逢つた事がないのである。併し目を見交《みかは》した所で、互に相手の心が知れたのである。殊にセルギウスの方で女の心が知れた。只一目見たばかりで、悪魔ではないかと云ふ疑は晴れた。只の、人の好い、可哀らしい、臆病な女だと云ふことが知れた。
「あなたはどなたですか。なんの御用ですか。」セルギウスが問うた。
 女は我儘らしい口吻《こうふん》で答へた。「兎に角戸を開けて下さいましな。わたくしは凍えてゐるのでございますよ。道に迷つたのだと云ふことは、さつき云つたぢやありませんか。」
「でもわたしは僧侶です。こゝに世を遁れて住んでゐるのです。」
「だつて好いぢやありませんか。開けて下さいましよ。それともわたくしがあなたの庵《いほり》の窓の外で、あなたが御祈祷をして入らつしやる最中に、凍え死んでも宜しいのですか。」
「併しこゝへ這入つてどうしようと。」
「わたくしあなたに食ひ付きはいたしません。どうぞお開けなすつて。凍え死ぬかも知れませんよ。」段々物を言つてゐるうちに、女は実際気味が悪くなつたと見えて、しまひは殆ど泣声になつてゐる。
 セルギウスは窓から引つ込んだ。そして荊《いばら》の冠《かんむり》を戴いてゐるクリストの肖像を見上げた。「主よ。お助け下さい。主よ。お助け下さい。」かう云つて指で十字を切つて額を土に付けた。それから前房に出る戸を開けた。そこで手探に鉤《かぎ》のある所を捜して鉤をいぢつてゐた。
 その時外に足音が聞えた。女が窓から戸口の方へ来たのである。突然女が「あれ」と叫んだ。
 セルギウスは女が檐下《のきした》の雨落《あまおち》に足を踏み込んだと云ふ事を知つた。手に握つてゐる戸の鉤を撥ね上げようとする手先が震えた。
「なぜそんなにお手間が取れますの。入れて下すつたつても好いぢやありませんか。わたくしはぐつしより濡れて、凍えさうになつてゐます。あなたが御自分の霊の助かる事ばかり考へて入らつしやるうちに、わたくしはこゝで凍え死ぬかも知れませんよ。」
 セルギウスは扉を自分の方へうんと引いて、鉤を撥ね上げた。それから戸を少し開けると、覚えずその戸で女の体を衝いた。「あ。御免なさいよ。」これは昔貴夫人を叮嚀に取扱つた時の呼吸が計らず出たのであつた。
 女は此詞を聞いて微笑《ほゝゑ》んだ。「これは思つたよりは話せる人らしい」と心の中《うち》に思つたのである。「ようございますよ。ようございますよ。」かう云ひながら、女はセルギウスの側を摩《す》り抜けるやうにして中に這入つた。「あなたには誠に済みません。こんな事を思ひ切つていたす筈ではないのですが、実は意外な目に逢ひましたので。」
「どうぞ」とセルギウスは女を通らせながら云つた。暫く嗅いだ事のない上等の香水の匂が鼻をくすぐつた。
 女は前房を通り抜けて、庵室に這入つた。
 セルギウスは外の扉を締めて鉤を卸さずに、女の跡から帰つて来た。「イエス・クリストよ、神の子よ、不便《ふびん》なる罪人《つみびと》に赦し給へ。主よ不便なる罪人に赦し給へ。」こんな唱事《となへごと》を続け様《さま》にしてゐる。心の中《うち》でしてゐるばかりでなく、唇まで動いてゐる。それから「どうぞ」と女に言つた。
 女は室の真ん中に立つてゐる。着物から水が点滴《あまだれ》のやうに垂れる。それでも女の目は庵主の姿を見て、目の中《うち》に笑を見せてゐる。「御免なさいよ。あなたのかうして行ひ澄ましてお出なさる所へお邪魔に来まして済みませんね。でも御覧のやうな目に逢ひましたのですから、為方《しかた》がございません。実は町から橇に乗つて遊山に出ましたの。そのうちわたくし皆と賭をして、ヲロビエフスカから町まで歩いて帰ることになりましたの。ところが道に迷つてしまひましてね。わたくし若しあなたの御庵室の前に出て来なかつたら、それこそどうなりましたか。」女はこんな※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》を衝いてゐる。饒舌《しやべ》りながらセルギウスの顔を見てゐるうちに、間が悪くなつて黙つてしまつた。女はセルギウスと云ふ僧を心にゑがいてゐたが、実物は大分違つてゐる。予期した程の美男ではない。併し矢張立派な男には相違ない。頒白《はんぱく》の髪の毛と頬髯とが綺麗に波を打つてゐる。鼻は正しい恰好をして、美しい曲線をゑがいてゐる。目は、真つ直に前を見てゐる時、おこつた炭火のやうに赫いてゐる。兎に角全体が強烈な印象を与へるのである。
 セルギウスは女が※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]を衝くのを看破してゐる。「は、さうですか」と女を一目見て、それから視線を床の上に落して云つた。「わたくし
前へ 次へ
全12ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
トルストイ レオ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング