驍ワでに恋をしてゐたので、目もくらみ耳も鈍くなつてゐて、ペエテルブルク中で知らぬものゝない、此娘の秘密をステパンは知らずにゐた。
それは伯爵コロトコフの令嬢には、ステパンが結婚の約束をする一年前に、帝のお手が付いたと云ふ一件である。
式を挙げる日が極まつてからの事である。ステパンはその日の二週間前に伯爵家の別荘に呼ばれて滞留することになつた。別荘はツアルスコエ・セロである。時は五月の暑い日である。ステパンと娘とは花園の中《うち》を散歩して、そこにある菩提樹並木の蔭のベンチに腰を掛けた。その日には、白の薄絹の衣裳を着てゐた令嬢マリイがいつもよりも一層美しく見えた。おぼこ娘の初恋と云ふものを人格にして見せたらこんなだらうと思はれる程である。ステパンがこの天使のやうな純潔な処女心《をとめごころ》を、うかとした挙動や言語《げんぎよ》で傷るやうな事があつてはならぬと心配して、特別な優しさと用心深さとを以て話を為掛《しか》けてゐると、マリイは伏目になつたり、又背の高い美男のステパンを仰いで見たりしてゐる。
千八百四十何年と云ふ頃には、紳士社会に一種の道徳的観念があつた。それは紳士が自分は貞操
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