い。」セルギウスはかう繰り返した。そしてこれまでも度々こんな祈祷をして、それがいつも無駄であつた事を考へた。自分の祈祷は他人には利目がある。それに自分で自分の事を祈祷して見ると、僅ばかりの名聞心をも除いて貰ふ事が出来ない。セルギウスは自分が初めて山籠をした頃、自分に清浄、謙遜、慈愛を授けて貰ひたいと神に祈つた事を思ひ出した。それから指を切つた時の事を思ひ出した。自分の考では、その時はまだ自分が清浄でゐて、神も自分の訴を聴いて下さつたのである。セルギウスは尖《さき》を切つた指の、皺のある切株に接吻した。あの頃は自分を罪の深いものだと思つてゐて、却て真の謙遜が身に備はつてゐた。それから人間に対する真の愛も、あの時にはまだあつた。酒に酔つた老人の兵卒が金をねだりに来た時も、深く感動して、優しく会釈をして遣つた。あの女をさへ矢張優しくあしらつたのである。それに今はどうだ。一体|今日《こんにち》己に近づいて来る人間のうち、誰かを己は愛してゐるだらうか。あのソフイア・イワノフナ夫人はどうだらう。あの年の寄つたセラビオンはどうだらう。けふ集つて来た大勢の人はどうだらう。その中でもあの学問のある若い教授はどうだらう。己は目下のものに物を教へるやうな口吻であれと話をした。その間いつも己はこんなに賢い、こんなにお前よりは進んだ考をしてゐるぞと、相手に示さうとしてゐた。己は今あの人々の愛を身に受けようとして、その身に受ける愛を味つてゐる。その癖己はあの人々に対して露ばかりも愛を感じてはゐない。どうも己には今は愛と云ふものが無くなつてゐる。随つて謙遜もない。純潔もない。さつきも商人が娘の年を二十二になると云つた時、それを聞いて好い心持がした。そしてその娘が美しいかどうか知りたいと思つた。それから病気の様子を問うた時も、対話の間に、その娘は女性の刺戟があるかないか聞き出さうと思つてゐた。「まあ、己はこんなにまで堕落したのか。天にいます父よ。どうぞわたくしの力になつて下さい。わたくしを正しい道に帰らせて下さい。」かう云つてセルギウスは合掌して、又祈祷をし始めた。
その時ルスチニア鳥が又森の中から歌の声を響かせた。鞘翅虫が一匹飛んで来て、セルギウスの頭に打つ付かつて、項《うなじ》へ這ひ込んだ。セルギウスはその虫を掴んで地に投げ付けた。「えゝ。一体神と云ふものがあるだらうか。己が何遍門を叩いても
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