てたので、靴の音は猶高く聞えた。
やう/\の事でセルギウスは一人になつた。セルギウスはいつの日だつて祈祷をすると客に逢ふとだけである。併しけふは格別にむづかしい日であつた。早朝に位階の高い人が来て、長い話をした。その次にはセルギウスを信じてゐる、宗教心の深い母親が、大学教授をしてゐて、信仰のまるでない、若い息子を連れて来て、出来る事なら帰依《きえ》させて貰はうとした。此対話はひどく骨が折れた。若い教授は坊主と辯論がしたくない。多分セルギウスを少し足りないやうに思つてゐるらしい。そこでなんでもセルギウスの言ふことを御尤《ごもつとも》だとばかり云つてゐる。その癖この信仰の無い若い男が安心立命をしてゐると云ふことが、セルギウスに分つた。セルギウスは、不愉快には思ひながら、今その教授との対話を思ひ出してゐる。
セルギウスに仕へてゐる僧が来て云つた。「何か少し召し上りませんか。」
「はあ。何か持つて来て下さい。」
僧は庵室の方へ往つた。そこは龕のある洞窟から十歩許隔たつてゐる。
セルギウスが一人暮しをして、身の周囲《まはり》の事を総《すべ》て一人で取りまかなひ、パンと供物とで命を繋いでゐた時代は遠く過ぎ去つてゐる。今ではセルギウスだつて勝手に体を悪くしても好いと云ふ権利はないと云つて、僧院のものがさつぱりした、然も滋養になる精進物を運んで来る。セルギウスはそれを少しづゝしか食べない。併し前に比べて見ると、余程多く食べる。それに前には物をいや/\食べて、始終何か食べるのを罪を犯すやうに感じてゐたのに、今では旨がつて食べる。けふも少しばかりの粥を食べ、茶を一ぱい飲んで、それから白パンを半分食べた。僧は跡片付をして下つた。セルギウスは一人楡の木の下のベンチに居残つた。
五月の美しい夕である。白樺、白楊《はくやう》、楡、山※[#「木+査」、第3水準1−85−84]子《さんざし》、※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《かし》などの木が、やつと芽を吹いたばかりである。楡の木の背後《うしろ》には黒樺の花が満開してゐる。ルスチニア鳥が直《ぢ》き側で一羽啼いてゐる。外の二三羽はずつと下の河岸の灌木の中で、優しく人を誘ふやうな、笛の音《ね》に似た声を出してゐる。遠い岸を野らから帰る百姓が、歌を謡つて通る。日は森のあなたに沈んで、ちらばつた光を野の緑の上に投げてゐる。野の一方は明る
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