ゞとも申さずに置きました。只昔お心易くした御身分のあるお方で、今巡礼に出て入らつしやるのだと申しました。あちらのお茶の間にお茶が出してありますから、どうぞ入らつしやつて。」
「いえ。もうそれには及びません。」
「そんならこちらへ持つて参りませうか。」
「いえ。それにも及びません。パシエンカさん。あなたのわたくしをもてなして下さつたお礼は、神様がなさるでせう。わたくしはもうお暇《いとま》をします。若しわたくしの事を気の毒だと思つて下さるなら、どうぞ誰にもわたくしに逢つた事を話さずにゐて下さい。神様に掛けて頼むから、誰にも言はないで下さい。本当にわたくしはあなたを難有く思つてゐます。実は土に頭を付けてお礼が言ひたいのですが、さうしたらあなたがお困りでせうから止めます。わたくしの御迷惑を掛けた事は、クリスト様に免じてお恕《ゆる》し下さい。」
「そんならどうぞわたくしに祝福をお授けなすつて。」
「それは神様があなたにお授け下さるでせう。どうぞわたくしの悪かつた事を免《ゆる》して下さい。」かう云つてセルギウスは立ち去らうとした。
併しパシエンカは引き留めて、食パンや、菓子パンや、バタをセルギウスに遣つた。
セルギウスは素直にそれを受けて、戸口を出た。外は闇である。家二軒程の先へ歩いて往つた時は、もう姿がパシエンカの目に見えなかつた。
近く住まつてゐる僧侶の家の犬が吠えた。パシエンカはそれを聞いて、セルギウスがまだ町を出離れない事を知つた。
――――――――――――
セルギウスは考へた。「己の夢はかうしたわけだつた。己はあのパシエンカのやうに暮せば好かつたに、さうしなかつたのだ。己は陽に神の為めに生活すると見せて、陰に人間の為めに生活した。パシエンカはつひ人間の為めに生活する積りでゐて、実は神の為めに生活してゐた。己は人間に種々の利益《りやく》を授けて遣つたやうだが、あんな事をするよりは、難有く思はせようなどと思はずに、水でも一杯人に飲ませた方が増しだつた。ちよいとした善行の方が己の奇蹟よりは好いのだ。その癖己のした事にも、神に仕へると云ふ正直な心が、少しは交つてゐたのだが。」セルギウスはかう考へて、自己を反省して見て、さて云つた。
「成程。その心もないではなかつた。只世間の名聞《みやうもん》を求める心に濁されて、打ち消されてゐたのだ。己のやうに現世の名誉を求
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