たれを着して候――と面妖気に言ったあの言葉を憶い出して苦笑を禁じ得ないのである。
以前は若い女性は結婚というものを大きな夢に考えて憧れていたから、花嫁になると、すぐにその髪を結って、
「私は幸福な新妻でございます」
と、その髪の形に無言の悦びを結びつけてふいちょう[#「ふいちょう」に傍点]してあるいたのであるが、今の女性は社会の状態につれて、そのようなことを愉しんでいるひまがなくなったのででもあろうか、つとめてそういったことを示さぬようになって来た。
結婚前も結婚後も、雀の巣のようにもじゃもじゃした電気のあとをみせている。「簡単」どころか髪をちぢらすのには種々の道具がいる。せっかくふさふさとしたよい黒髪をもって生まれながら、わざわざ長い時間をかけてその黒髪をちぢらしている。私なぞの櫛巻は一週間に一度三十分あれば結える、そして毎朝五分間で髪をなでつけ身仕度が出来る簡単さとくらべれば、わざわざ髪をちぢらすのにかける時間の空費は実にもったいないことである。私にはどういう次第か、あの電髪というものがぴんとこない。
パーマネントの美人(私はパーマネントには美は感じないのであるが)は、いくら絶世であっても、私の美人画の材料にはならないのである。
あれを描く気になれないのは、どうしたわけであろうか?
やはり、そこに日本美というものがすこしもない故であろうか。
当今では日本髪はほとんど影をひそめてしまったと言っていい。
しかし伝統の日本髪の歴史はながいから、まだ若い女性の内部には、その香りが残っていると見えて、お正月とか節分、お盆になると、ふるさとの髪、日本髪を結う娘さんのいるのは嬉しいことである。
人は一年に一度か三年に一度はふるさとへ帰りたい心をもっているのと同様に――今の若い女性といえども、ときどき先祖が結った日本髪という美しい故郷へ帰ってみたくなるのであろう。
私が女性画――特に時代の美人画を描く心の中には、この美しい日本髪の忘れられてゆくのを歎く気持ちがあるのだと言えないこともない。
底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
1976(昭和51)年11月10日発行
入力:鈴木厚司
校正:川山隆
2007年4月24日作成
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