さえも、もう今とは感じがちがいます。それは時代という空気がいい加減にぼかしをかけてくれるからです。今、今のことは万事裸にあらわ[#「あらわ」に傍点]に見え透きますが、もう五十年七十年と時代が隔たるにつれまして、そこに一と刷毛の美しい靄がかかります。私はこの美しい靄を隔てた、過去の時代を眺めたいのです。
 現在ありのまま、物は写実に、はっきりとゆくのが現代でしょう。裸《はだか》は裸、あらわ[#「あらわ」に傍点]なものはあらわ[#「あらわ」に傍点]に、そのままに出すのは、今の世の習わしなんですが、私には、どうもそれが、浅まに見えてなりません。

 私は、今の心持に一段落がついたら、現代風俗を描いてみたいという念願があるのです。

 私は、何も過去の時代のみを礼讃《らいさん》して、現代を詛《のろ》うというような、気の強いものではありません。現代は現代で、やはりいい処はいいと見ていますし、随分美しいものは美しいという、作家並な感受は致しているものです。この気持ちを生かした、モダンな現代風俗を描いてみることも、決して楽しみでないとはいえないと思います。

 ですが、私がもし現代風俗に筆を執るとしたら、私はどんな風にこれを取り扱い、どんな風の表現によるのでしょうか、それはいざという場合になってみませんと、今からなんともいえないのですけれど、しかし、自分であらまし想像のつかないこともありません。それは、私はモダンをモダンとして、そのまま生まな形では表わすまいと思うのです。そのモダンを、多少の古典的な空気の中に引きこんできて、それをコナしたものを引き出してくるのではないかと思われます。

     ○

 若い人たち――殊に若い閨秀作家《けいしゅうさっか》たちの作品には、よく教えられることがあります。みな器用になって、表現が巧みになっていることは争えません。けれども、教えられることと、共鳴することとは違うと思います。共鳴する作品というものは、なかなかないものです。共鳴する作品と申しますと、その作品の何も彼《か》もが、こちらの心持ちへ入ってきて、同じ音律に響くということになるのですから、つまりこちらの個性を動かすだけのものでなくてはならないわけです。
 ところが、てんでの個性を、他の個性が動かす――というような作品は、容易にあるものではなかろうと思います。

 どの道、私の作風は、い
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