は一枚の屏風絵を縮図するのにやっとのことが多い。
 私は毎年屏風祭が来るたびごとにのこのこ歩き廻っては、ずいぶんながいことかかって一枚一枚と他家秘蔵の屏風絵を自分の薬籠に納めているわけである。
 絵物語式の大屏風になると、一曲縮図をとるのに三年もの祇園祭を送り迎えたこともある。

 よく昼食を頂いたり、また夕御飯を出してくださったりしたが、来年の祇園祭まで延ばすのが、何としても惜しくて仕様がない、そこで、厚かましいとは考えながら遠慮なくそれを頂戴して、また夜おそくまで屏風の前に坐り込んでしまったことなどもあって、屏風祭が来ると、私の縮図している姿がどこかにないと淋しい……そんなに屏風祭の名物扱いにされた時代もあった。

 永徳は永徳で、大雅堂は大雅堂で、宗達は宗達でそれぞれ実に立派な態度を以て絵に対しているのが、それを縮図しつつある私にこよなき鞭撻を与え、また勉強のかて[#「かて」に傍点]ともなるので、私は屏風祭が来るたびに、縮図が進むと進むまいとにかかわらず、ただ屏風絵の前に端坐出来たことの幸福を今もって忘れることが出来ない。



底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976
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