はいろいろのことを感じた。上海は何という不可思議なところなのであろう。街の裏と表とではまるで地獄と極楽とが腹合せになっているというようなところである。
 それから大金持と乞食とがまるでごった返しているのである。にぎやかな街には幾つも露地のような細い横筋の小さな通りがある。そこにはごたごたとした小さな食物の店がある。その家々に支那人が代わり代わり腰をかけて、油っこいものを、さもおいしそうに青天井の下でたべている。軒もひさしもない青天井の下ではさぞかし塵埃もおちて来ようと私にはおもえた。しかし支那人たちはそんなことには一向平気で、さもさもおいしそうにたべているのである。そこを一歩奥の方へはいり込むと、何とおどろくべきことか、まるで乞食の巣のような一種名状すべからざる怪奇なところがあり、うす気味悪い戦慄がおもわず肌を走るのをおぼえる。そこにはどんな深刻な犯罪があるかも知れない。どんな秘密がたくらまれているかも知れない。そういう印象を与える。
 お天気の日には、ごみごみとした悪臭のするところに腰をかけて、のんびりした顔をしてしらみを取っているものがある。何の恥辱もなく、何の不安もなく、あたりまえの顔をしてやっている。のん気な底知れぬ沼のような怪奇さがただようている。そこの外のところに大きな賭博場が二つあり、インテリや金持ちなどが集まるところと、またいまひとつは無頼漢などがあつまって賭博に来るところがあるということであった。それをみせてあげるという話であったが、インテリのも無頼漢の方もどちらもみられなかった。しかしそういう怪奇な家の表を通って来たのであったが、仏租界はそんなに危険ではないらしいという話であったので、毎日大抵租界のしきりを越えてゆくのであった。

 私は自動車のちょうど真中あたりに座をしめていた。そして私の両側に同行の人がのっていた。もう一台の方は男の人たちが乗っていた。二台ずつで毎日市中をみて歩いていたのであった。翌日、自動車でゆくと、大へんな雑|閙《とう》があり、そういうところに何ということであろう餓死人が倒れたまま放っておいてあるのだった。私はそれを何ということもなくとっくりとみていたかったが、歩いていると、それはただそれだけではなしに、実はそこにもここにもといったぐあい[#「ぐあい」は底本では「ぐあいい」]にあるのであって、誰も私のように物珍しくみているものなぞはないのである。通行人はそれを知らん顔をして通っているのである。日本ではそんな行き倒れなどがあると大騒ぎになるというところだが、この土地では誰も知らん顔をして通りすぎてゆくのであった。別に人だかりもしない、実に妙な悲惨なところである。
 そうして蘇州へ行った時は、十一月中頃の寒い晩であった。そうすると上海中で昨夜の寒気で百人ほどの死人があったという。話をきいて私はすっかりおどろいてしまったのである。そういうところがあるかとおもうと、租界の外に大きなダンスホールがあったりするのである。そこでは夜の十二時頃から翌日の午前五時頃まで皆が踊り抜いているのだという。こういう歓楽場があり、有閑婦人や、おしゃれ息子や金持ちがゆくところとみえる。一方にはこんなところがあって、とても貧富の差のはなはだしい中産階級というものがないところとおもわれる。
 映画館にもとても立派で大きなものがあって、よくはやっていてちょっとおそくてももう入ることが出来ないということであった。昼のあいだから切符を買っておく。休憩室があってこれがとても広いものであった。それに物資がとても豊富なものであって、自動車も二時間、三時間でも平気で待たしておく。芝居のはてるまで、何時間でも待っているといった有様であった。化粧品でも、毛糸でも、綿布でもふんだんに店頭に積んである。

        支那の芝居

 上海のユダヤ人の経営している大きなホテル、十一階建てのホテルがある。その五、六階から下をみおろすと、向うが海岸みたいなところになっている。そこを自動車が数珠つなぎのようになって並んでいる。ホテルの表でも必ず自動車が五、六台は止まっている。少しも自動車に不自由をすることはない。
 私はこの上海に四日ほどいた。その間に軍の慰問をした。病院にも、鉄砲の玉があたっていて今だに弾痕が残っていて、激戦の日がおもわれるのであった。病院には傷病兵が沢山おられた。私たちがこうしてお訪ねすると皆が非常によろこんで下すったのは私にもうれしいものであった。そしていろいろと歓待していただいたのであった。
 上海神社というのへ参詣する。十一月三日はこちらの明治節のいい日であったので、結婚式が幾組もあった。白装束のや三つ衣裳のあげ帽子をかぶったうら若いお嫁さんがいて、それはいずれも日本の娘さんであった。日本人同志の結婚である。
 私は
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