う宿に泊った。昼の二時頃、軍部と軍の病院とを訪問した。それから日の暮れ前にこの宿へついた。私はここで熱を出してしまった。
 実は上海にいたとき風邪をひいたのであった。抗州へ出発するという前の晩に、上海でダンスホールを見に行った。そのことはすでに前に記したが、そのダンスホールは広いホールになっている。その真中は板敷であった。そこでちょっとさむいなと感じた。その時はすでに風邪をひいていたらしい。
 抗州の宿についてみると、何の気なしでいたのだが、しきりとくしゃみが出た。それで薬を呑んで床にはいったのであった。体温計ではかってみると三十七度八分ほど熱が出ていた。お薬を呑んであたたかくして静かに床についたのであった。翌日になってみるとやはり熱がひかないので医者が来て、あたたかくして寝ているとよいというので、この日一日中床についていた。その翌日は、幸いにも熱が下ったが、外へ出るのはひかえて、三日ほどはその宿で静養していたのであった。そして四日目は抗州の山手に二つばかりある寺をみに行った。寺は玉泉寺というのと雲林院である。ここはやはり皇軍の進撃した戦蹟なのであった。山門なども半分はくだけていた。山手でさびしいところなので、まだあぶないものとみえて、軍の方から十四、五人の兵隊さんがトラックに機関銃をつんで物々しく護衛をして下すった。このためか、幸いに敵の襲撃は受けず、つつがなく参詣することが出来たのであった。玉泉寺には大きな池があった。池はきれいなすみ透った水を湛えていた。大きな鯉が幾十尾とも知れず泳ぎまわっていた。寺の坊さんが鯉に餌をやってくれと言ってキビ藁のようなものをもって来たので、それを鯉にやった。その坊さんはちょうど南画の山水の中にいるような坊さんで、鯉にやった餌と同じものをたべているのだということであった。そこから自動車で山手をのぼると雲林院へつくのである。ここには五つ六つくらいの女の子の案内人がいる。いずれも貧家の子であった。それに日本語がいつ習いおぼえたものかうまいものである。私たちが自動車を降りるとその女の子がいきなり走って来て「今日は」と言う。「御案内いたします」なぞと言う。ここには男の子や大人の案内人もいるが、それを出しぬいてこの女の子が一番かせぐらしい。自分が先に立ってどんどん案内してゆく。寺の奥の方には防空壕があった。今はそれも名物のひとつになってしまっている。暗い内部をローソクをひとりひとりが持って、足許を照らしながらはいってゆくが、中はなかなか広く出来ている。そこにはローソクの光に照らし出される寝室や、風呂場や、会議室や、便所などと、いくつにも仕切られた部屋部屋があった。それらはくねくねと曲りくねってつづいているのであった。すると例の女の子は「アスモト御注意下さい」などと案内するのには私もおもわずふき出さずにはいられなかった。
 寺にはむろん仏像が祀ってあった。けれども日本の仏像にみられるような尊厳さ、有難味というものがない。それに塗ったのか貼ったのかは知らぬが仏像の金の色でも、本当の金色ではなくてやけに妙な赤味を帯びているのが不愉快な印象を与えた。
 西湖は十一月の五日から四日間ほど滞在したが、この土地はあまり寒くはなかった。西湖を船でゆくと、湖中に島があったり、島には文人好みの亭があったりして、いろいろと風景に趣のあるよいところであった。蘇堤などもいい風情をもっている。雨の日などはことに蕭々とけぶる煙雨になんとも言えぬ明媚な美しさがあった。
 銭塘江は、向う側が雨にくもってちょうど南画の墨絵の山水をおもわせ、模糊として麗わしかった。

        唐子童子

 南京の紫金山というのは、私の泊っていた宿の窓のところからちょうど額縁にはまったように見られたが、夕方などになると大へん美しい山に見えるのであった。
 山の形は、富士山の峰のあたりが角ばったようになっていて、そこへ夕陽があたるとすっかり紫色になってしまう。そして山麓にある家々の瓦などが、どういう関係からは知らぬが金色に輝いていかにも美しいものであった。
 紫金山という名はなるほどこの光景にふさわしいと思ったが、しかし朝になってみるとあれほど龍宮城かなにかのように美しかった金色の家々がまことにきたならしい家根であって一向おもしろくないものであった。
 抗州の銭塘江には橋が懸っていたが、事変の時、敵兵がその真中のところを爆破して逃げてしまったので、そこで中断されて河中に墜落していた。ホテルの近くに山があって、その山中に道士が棲んでいる。昔から絶えず棲んでいるという話であったが、私は都合が悪くてそれを見にゆけなかった。
 鎮江に甘露寺と金山寺がある。甘露寺からみると下が湖水になっていて、芦や葭がずっと生えている。この芦や葭をとって細工物をするのだという。
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