んとも言いようのない神秘な感じがしたと語っていたが、私の行った時はそういうさびしいもの、目を傷ましめるものは何にも残っていなかった。その辺で討死せられた皇軍の方々の墓標があり、花を供してあった。
 将校のお話は真に迫っていて、聴く者みなこみあげてくる涙を禁じ得なかったのである。

        悠々風景

 中山陵や明の孝陵や石人石獣をみたり、紅葉がなかなかきれいであった。
 南京の街はなかなかいい町であった。秦准、これは詩人が詩に詠んだり、画舫などもあり、夏の夜など実に美しいところであったらしいが、今は水はきたないし、画舫はくだけてしまってみるかげもない船があちこちに横たわっていた。橋のきわには乞食がいっぱいいる。そのあたりは食物店が、青天井なりで店を拡げていて、鍋のところに支那人があつまって、油でいためたものを食べている。また、そういう道幅のせまい処で、野天で縫いものをしているものもある。町人の食事も表でやっている。行きあたりのところに小学校があり、級長の子供が棒などもって他人のはいって来るのをとがめている。そのうちに生徒が帰り始める。生徒の服装はまちまちであるが別に見苦しくはない。学校帰りの子供が一銭くらい出して飴湯などを呑んでいるのを見ると、改めて支那人の胃袋について奇異の感をいだく。衛生などということは支那人には全く意味のないものと見える。
 日本の町の横筋は、小路といってもかなりの道幅があって、ここのようにせまくはない。支那の街は大通の横すじの町は自動車がはいると人などとても通れたものではない。どこへ行っても横町は極めて狭いのである。両側の家はぺちゃっとしたもので、壁みたいなものがつづいていて、そのところどころに入口だけが口をあいている。内部をのぞいてみるとどれも暗い家ばかりである。これではなるほど家の中で生活することが出来ないであろう。家の中は寝ることと食べるだけの用をするところであると言っていいだろう。日本の家のように陽あたりがいいというような室がない、だから住民はわざわざ食物を表へ持ち出してたべているらしい。
 支那は石が豊富なのであろうか、どこへ行ってみても街は石だたみになっている。人力車にのると石だたみの上を走るからゆれ通しで苦しい。それに梶棒がやたらに長い。この車にのって行くと、仰向いて車の上で飛びあがってまるで大波にでもゆられて行くような
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