、そこに永住する決意をしたのである。
 世に謂う孟母三遷の有名な話であるが、孟母は、これほどにまでして育てた孟子も、成長したので思い切って他国へ学問にやってしまった。

 しかし、年少の孟子は、国にのこした母が恋しくてならなかった。
 ある日、母恋しさに、孟子はひょっこりと母のもとへ帰って来たのである。
 ちょうどそのときは、孟母は機《はた》を織っていた。母は孟子の姿を見ると、一瞬はうれしそうであったが、すぐに容子を変えて、優しくこう訊ねた。
「孟子よ。学問はすっかり出来ましたか」
 孟子は、母からそう問われると、ちょっとまごついた。
「はい、お母さま。やはり以前と同じところを学んでいますが、いくらやっても駄目なので、やめて帰りました」
 この答えをきいた孟母は、いきなり傍の刃物をとりあげると、苦心の織物を途中で剪《き》ってしまった。そして孟子を訓した。
「ごらんなさい、この布れを――お前が学問を中途にやめるのも、この織物を中途でやめるのも、結果は同じですよ」
 孟子は、母が夜もろくろく寝ずに織った、この尊い織物が、まだ完成をみないうちに断《き》られたことを、こよなく悔いた。母にすまない気持ちが、年少の孟子の心を激しくゆすぶったのである。
 孟子は、その場で、自分の精神の弱さを詫びて、再び都へ学問に戻った。

 数年ののち、天下第一の学者となった孟子に、もしあのときの母親のきびしい訓戒がなかったなら、果たして孟子は、あれだけの学者になれていたであろうか。
 まことに、賢母こそ国の宝と申さねばなりますまい。

「孟母断機」の図を描いたのは、明治三十二年であった。
 そのころ、わたくしは市村水香先生に就いて漢学を勉強してい、その御講義に、この話が出たので、いたく刺戟されて筆を執ったものであるが、これは「遊女亀遊」や「税所敦子孝養図」などと、一脈相通ずる、わたくしの教訓画として、今もって懐かしい作のひとつである。

「その父賢にして、その子の愚なるものは稀しからず、その母賢にして、その子の愚なる者にいたりては、けだし古来稀なり」
 息軒安井仲平先生のお言葉こそ、決戦下の日本婦人の大いに味わわなくてはならぬ千古不滅の金言ではなかろうか。そして孟母の心構えをもって、次代の子女を教育してゆかねばならぬのではなかろうか。
 ――孟母断機の故事を憶うたびに、わたくしは、それをおもう
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