は各方面にわたっていますので、私ども陳列された名画を臨模しながら、活きた学問をしたものでした。この日は京都画人の座談会という風なもので、一同時間を忘れ、いつか日が落ちて、あわてて座をたつといった、まことに和やかな風景でした。
 その頃展覧会は東京に美術協会展がありましたが、これには審査などなく、出せば陳列されたものでした。尤も、各社中で先生が選んで出されたのでしたが、京都の美術協会も同様審査などなく陳列されたと記憶します。私の出品して審査を受けたのは第四回内国勧業博覧会が最初と思います。そうした風で、明治三十年以前の画人というものは何となく悠揚たるものがあり、随って、いわゆる「お家芸」を守っている画人は、時代と共に忘れられてしまい、この頃に孜孜《しし》として研鑽を重ねたひとが後に名をなしたのです。栖鳳先生もその一人ですが、私が栖鳳先生の門に入った頃、先生はまだお若く、門下の人々とよく写生に出かけられたものでした。あの頃を想い出しても懐かしいものがあります。
 写生に出かけるのも、今日のように乗りものはなく、朝の暗い内に先生のお宅に集まるのです。関雪さん、竹喬さん、そうした男の方は洋服に
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