中でかしわ餅を沢山買って、写生が終ると、皆で座っていただくのです。これなども懐かしい思い出の一つでしょう。
春秋の二回、鈴木派の合同(百年、松年)画会が、同じ牡丹畑で開かれました。この時には絹本に描いたりしたものでした。前にも申した通り月次会には大抵紙本でしたが、この大会には絹本で特に力をいれたのでしたが、絹でも今日のように縁をつけたのではなく、矢張仮巻に貼ったものでした。
以上は一社中の年中行事の一例ですが、明治二十九年頃まで如雲社というのがあって、毎月十一日に画会が開かれました。これには世話をするひとがいて、参考品を大徳寺とか妙心寺とか、そうした各方面から古名画を借りてきて陳列したのです。随分よいものが陳列されたものでした。それで、この日は楳嶺、鉄斎、景年、それから内海吉堂、望月玉泉等の老大家や、その頃まだ若かった栖鳳、春挙という人々が集まってこの参考品を鑑賞したものでした。室の中央に火鉢がおかれ、その周囲に、老若諸大家が座をしめ、何とかいう茶人がたてる抹茶を服みながら、四方山《よもやま》の話がはずみます。旅の話が出ているかと思うと、こちらでは鳥の話が出ている。古画の話等、それは各方面にわたっていますので、私ども陳列された名画を臨模しながら、活きた学問をしたものでした。この日は京都画人の座談会という風なもので、一同時間を忘れ、いつか日が落ちて、あわてて座をたつといった、まことに和やかな風景でした。
その頃展覧会は東京に美術協会展がありましたが、これには審査などなく、出せば陳列されたものでした。尤も、各社中で先生が選んで出されたのでしたが、京都の美術協会も同様審査などなく陳列されたと記憶します。私の出品して審査を受けたのは第四回内国勧業博覧会が最初と思います。そうした風で、明治三十年以前の画人というものは何となく悠揚たるものがあり、随って、いわゆる「お家芸」を守っている画人は、時代と共に忘れられてしまい、この頃に孜孜《しし》として研鑽を重ねたひとが後に名をなしたのです。栖鳳先生もその一人ですが、私が栖鳳先生の門に入った頃、先生はまだお若く、門下の人々とよく写生に出かけられたものでした。あの頃を想い出しても懐かしいものがあります。
写生に出かけるのも、今日のように乗りものはなく、朝の暗い内に先生のお宅に集まるのです。関雪さん、竹喬さん、そうした男の方は洋服に
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
上村 松園 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング