無表情の表情
上村松園

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)弾《ひ》きもの

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)想われるほどの[#「想われるほどの」は底本では「想われほどの」]
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 私は前かたから謡曲を何よりの楽しみにして居りまして、唯今では家内中一統で稽古して居ります。松篁夫婦、それから孫も仕舞を習っているという工合で、一週に一度ずつは先生に来て頂いているという、まあ熱心さです。

 家の内の楽しみもいろいろあります。私や松篁など、絵のことはそれは別としまして、茶もあれば花もあり、また唄いもの弾《ひ》きもの、その他の遊芸などもありますが、その中で謡曲、能楽の道はなんといっても一とう物深く精神的でもあり、芸術的でもあって飽きがきませんのみか、習えば習うほど、稽古を積めば積むほど娯《たの》しみが深くなってゆきまして、大業《おおぎょう》に申せば、私どもの生活のすぐれた糧《かて》となって居ります。

     ◇

 能楽に用いる面ですが、あれは佳《よ》いものになると、よく見れば見るほど微妙なもので感心させられます。名人達人の作になるものなど、まるで生きている人間の魂が、そこに潜んでいるのかと想われるほどの[#「想われるほどの」は底本では「想われほどの」]ものです。

 そのすぐれた面を着けて、最もすぐれた名人があの舞台に立つと、顔上《がんじょう》面《めん》なく、面裡《めんり》人なしとでも申しましょうか、その面と人とが精神も肉身も合致合体、全く一つのものに化してしまって、さながらに厳然たる人格と心格を築き出します。この境涯は筆紙言舌の限りではありません。

 この境涯では、人が面を着けているなどいう、そんな浅間《あさま》な感情などは毛筋ほども働いていません。

 よく能面の表情は固定していて、死んだ表情であり、無表情というにひとしいなどと素人の人たちがいうのですが、それは能楽にも仕舞にも何等の徹底した鑑賞心をもって居らないからの言葉でありまして、名人の場合など、なかなかそんな批点《ひてん》の打ちどころなどあるものではありません。

 無表情と言いますが、名人がその面をつけて舞台に立ちますと、その無表情な面に無限な表情を発します。悲しみ、ほほえみ、喜び、憂い、その場その場により、その時その時に従って、無限の表情が流露《りゅうろ》して尽くるところがありません。

     ◇

 能楽からくる感銘はいろいろです。単なる動作や進退の妙というだけのものではなく、衣裳の古雅荘厳さや、肉声、器声の音律や、歴史、伝説、追憶、回想、そういうものが舞う人の妙技と合致して成立つものですが、殊にこの能楽というものは、泣く、笑う、歓喜する、憂い、歎ずる、すべてのことが決して露骨でなく、典雅なうちに沈んだ光沢があり、それが溢れずに緊張するというところに、思い深い、奥床しい感激があるのです。

 感ずれば激し、思うだけのことを発露するという西洋風な表現のしかたも、芸術の一面ではあろうと思いますが、能楽の沈潜した感激は哲学的だと言いましょうか、そこに何物も達しがたい高い芸術的な匂いが含蓄《がんちく》されてあると思います。こういう点で能楽こそは、真の国粋を誇りうる芸術だといえましょう。

     ◇

 私は、その名人芸を見る度毎に、精神的な感動を受けます。どうしてこうも神秘なのであろう、こういう姿をした、こういう別な世界は、果たしてあるのであろうか、無いようでありながら、たしかに此処に現われている、といったような微妙な幻想にさえ引きこまれて、息もつけずにその夢幻的な世界に魂を打ちこんでしまうのです。

 私はこの能楽の至妙境《しみょうきょう》は、移して私どもの絵の心の上にも置くことができましょうし、従って大きな益を受けることができると思いますので、ますます稽古に励むつもりでいますし、また人にも説くこともあります。

 私はこの頃、皇太后陛下の思召によります三幅対の制作に一心不乱になっております。これは今から二十一年も前に御仰せを蒙ったものですが、いろいろの事情に遮られて今日までのびのびになっていることが畏《かしこ》く存ぜられますので、他の一切のことを謝絶していますが、間々《あいあい》の謡曲の稽古だけは娯しみたいと思っております。



底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日初版発行
   1977(昭和52)年5月31日第2刷
初出:「大毎美術 第十六巻第三号」
   1937(昭和12)年3月
入力:川山隆
校正:鈴木厚司
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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