帝展の美人画
上村松園
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)吃驚《びっく》り
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)筆一|途《すじ》
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内緒でこっそりと東京まで帝展を見に行って来ました。
この頃の帝展はいつの間にか、私にはしっくりしないものになっているような気がします。誰の作品の何処がどうというのではありませんが、あの会場にみちあふれているケバケバしいものがいやだと思います。どぎつい岩ものをゴテゴテと盛上げて、それで厚味があるとかいう風に考えられてでもいるような作が、あの広い会場を一杯に占領しているのを見ますと私はただ見渡しただけで吃驚《びっく》りさせられるばかりでした。
あれでないと近頃の大会場芸術とやらには、不相応なのかも知れません、ああしないと、通りすがりの観衆の眼を惹かないのかも知れません。ですけれどもあんな調子では、日本画はだんだん堕《お》ちて行くばかりではないかという気がします。画品などというものは、捜し廻っても何処にもありはしません、下卑た品のない、薄ッぺらなけばけばした絵ばかり目につきます。それがモダンというものでしょうかしら? そうしなければ、モダンな味というものは出せないものでしょうかしら? モダンにするために、何もそうわざに品を落して薄ッぺらな絵にしなくても、いいように私は思います。
あんなに岩ものを盛上げたから、それで絵の厚味が出たと思うのが間違いだと思います。絵の奥の奥からにじみ出す味、それは盛上げたばかりで出るものではないということが、わからないのでしょうか。
今年は伊東深水《いとうしんすい》さんの「秋晴」がえろう評判でしたが、あけすけにいえば、私は一向感心しませなんだ、どうもまだ奥の方から出ているものが足りないと思います。
伊藤小波《いとうしょうは》さんの「秋好中宮」は昨年のお作の方が、私には好きだと思います。大きく伸ばしたのでいろんなものが見えたのかも知れません。
和気春光《わけしゅんこう》さんの「華燭の宵」は怖い顔の花嫁さんやと思いました。
木谷千種《きたにちくさ》さんの「祇園町の雪」を見ると、ズッと昔の「をんごく」などの方を懐かしく思い起こさせられます。
私はもう年をとってしまいまして、モダンな現代から置いてけぼりを食ってしまったのやと思います。そうかといっ
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