とになり、秘書を案内に貸して下さった。
 楽屋は二階をあがったりおりたり、特有な臭をおしわけてゆくような処で、日本でいう大部屋という感じだった。チャリも三枚目も女形も大将軍も一部屋にごちゃごちゃと座を持っていた。
 私が写生帖をひらき皇帝になる役者を写し始めると、ほかの者もよって来てあれこれと批評している。似ているとか似ていないとか言っているのだろうが、そうすると折角のモデルの皇帝までがのこのこと写生帖をのぞきに来るのには弱った。
 モデルにもなれず、写生帖ものぞくひまもなく舞台に出て行った役者の一人は、舞台をすますと大急ぎで走り戻り、自分も写して貰いたいのだろう、ほどよい処に陣取って形をつくってすましかえっている御愛嬌には笑わせられた。私はふっと特務機関長のところの門衛の支那兵を思い出したりした。

     杭州にて

 杭州では西冷印社という印肉屋に朱肉を見に行ったりした。少し茶色がかった朱肉などもあった。
 西湖に姑娘《クウニャン》が漕ぐ舟を浮べ私や三谷は写生帖を持ちこんだ。
 平仙寺雲林寺等の山門は戦禍をうけていたが寺々のものは何ともなっていなかった。その寺の奥には、寝床、便所、風呂場もある大きな防空壕が廃墟のように残っている。いずれ支那兵あたりが使用したものであるが、いまはそれも見世物で、私達が近よってゆくと、五つ六つの襤褸《ぼろ》をまとった女の子が、
「今日は……」
 と、日本語で声をかけて案内にたった。
 ひとりひとり蝋燭を一本ずつもたされ壕にはいると、女の子はまた日本語で、
「アスモートに御注意下さい」
 という。足許といっているのである。そして見物し終ると、これも日本語で、
「案内賃下さい」
 と、片手をつき出して実にはっきりと事務の如くにいう。ほかに十二、三の男の子も案内にたっているのだが、とてもこの敏捷な幼い女の子には敵《かな》わない。男の子がうしろの方でもじもじしている間に、女の子はさっさと一行の案内賃を請求しているのである。私達は笑いながら銭をつかませてやった。
 蘇州の寒山寺、獅子林、明孝陵。鎮江金山寺、杭州の浄慈寺、それに前に書いた平仙寺、雲林寺という風で、従って仏像も沢山見た。実に沢山ある。だがそれは数ばかりでその容姿風貌には日本の仏像のように尊いところがなかった。これらの仏像がつくられた頃から、支那の現在の国運はすでに定っていたのかも知れない。

     南京にて

 十三日。南京に着いて宿舎に憩《いこ》う暇もなく汪精衛主席に会う都合がついたからと公館に挨拶に出かけることになった。
 此処も数限りない菊の真っ盛りであった。大きな亀甲模様の床、深々とした椅子、その大広間にも菊の鉢がずらりと並んでいた。
 汪主席はかねて美術に理解のある方だと聞き知っていたが、眼にとまるところに砂子地に鶴を描いた六曲屏風が据えられていた。いずれは日本の知名の方の贈物かも知れない。日本画の筆になった新しい絵のようであった。或は知っている作家かとも思うが、少し遠いので落款《らっかん》をはっきり見ることが出来なかった。
 物静かな、大柄な、青年のような汪主席はいまは日本にとっては多く親しまれた風貌であろう。部屋には新聞社の写真班の方々もどやどやと見えていた。お話は通訳を通してのことであるが、汪主席は始終にこにこと微笑を浮べていられる。黒っぽい背広に、地味なネクタイ、角刈の頭といった、何処までも品のよい落着きを身につけている方であった。これが常に支那のために身を挺して闘って来た人であるという激しさはどうにも汲みとれない静かさである。
 私は型ばかりの手土産にと持参した色紙をお贈りしたが、これもあふれるような笑顔で受けて貰えた。そして、
「画風はどんなものか」というように聞かれたので、私は風俗をやっていると答えたりした。
 帰りに眼にはいった次の間には、日本の具足が一領飾られてあったようであった。
 同じ南京では畑支那派遣軍総司令官閣下に御挨拶に参上した。後宮総参謀長その他の幕僚も御一緒であったが、畑大将は私が杭州で風邪をひき、二日ばかり微熱のために静養したのを土地の新聞か何かで御存じであったのであろう、
「杭州でお悪かったそうだが、いかがです」という風にたずねられた。
「お蔭様で、もうすっかりなおりましたので……」とお答えすると、
「それはよかった。然しまあ無理をしないように……」と言われた上に、追いかけるようにして、
「それからどんなことがあっても生水だけはのみなさるな」
 と、細かい注意をして下さるのであった。これは常々兵隊の身を案じ続けていられる心遣いが私のような者の上にも泌《にじ》みでるように出たお言葉であろうと胸に響くものがあった。大将こそ身体を御大切に、ついそう念じないではいられなかった。
 これはまた汪主
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