れたが、ある日私は何かの差支えで昼から出掛けて行ったことがある。当番で仕事をする人には先生の所からおやつ[#「おやつ」に傍点]にお茶とお饅頭が出る習慣だったが、その日私に出されたお饅頭が他の人の半分になってる。私が昼から出て行って半分より仕事をしていないからというわけなのだろうが、そうキチンキチンやらはらんでもと、思わずかっとしてその饅頭を叩きつけたか何かして、それでまた大叱言を喰った。
[#ここで字下げ終わり]
 このお話など、如何にも楳嶺先生の性格がよく出てると思います。

 楳嶺先生が死なれた年の春に岡崎で第四回内国勧業博覧会がありまして、私は「清少納言図」を出品しましたがその下図を誰ぞに見て貰わねばならぬと思って居りますと、丁度私の懇意な人で栖鳳先生を知ってる人がありましたので、その紹介で栖鳳先生に見て頂き、それからずっと塾に入れて頂くことになりました。
 栖鳳先生の御池の画室はその頃まだ新築されていない以前で階下にありましたが、私達がお伺いしますと画室に通されていつもそこでお話がありました。御池に行くようになって暫くしてからのことですが、ある時、尺八か尺五かの水墨の「寒山拾得
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