い方が間に入られて仲裁なさったので、丁度その時お揃いで御挨拶に来ていられた所だったのでした。(明治二十六年)
 その頃の塾の風と申しますと、師匠の画風にそっくり似たような絵をかかねばいけなかった時代でしたが、栖鳳先生や芳文・香※[#「山+喬」、第3水準1−47−89]というような人達は、狩野流や土佐や雪舟や又は伴大納言・北野縁起・鳥羽僧正といったような絵巻など、盛んに古画研究をやっていられました。それでその描かれるものが何処か若々しい独創的なところがありました。そんな頃楳嶺先生が「近頃棲鳳は妙な絵を描き出しよって……」と言われたことがあったのを覚えていますが、塾生と言えばただ素直に師匠通りの絵を描いているものだとされた時代なのですから、栖鳳先生の態度が楳嶺先生から異端と見られたようなこともあったろうと思われます。
 何しろ楳嶺先生は大変に厳格な気象のお方でしたのに、栖鳳先生は豪放なお方ですし……ずっと後のことですが栖鳳先生が思い出話をしていられた内にこんなことを話されました。
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楳嶺塾である時絵巻を写すことになり、当番を作って毎日何人かずつ一緒に通っては仕事をささ
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