昔のことなど
上村松園
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鳥渡《ちょっと》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「山+喬」、第3水準1−47−89]
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最近年の栖鳳先生はずっと湯河原にお出でになられたものですから滅多にお会いする機会もなくなり、何彼と先生のことを思い出そうとしますとどうしてもずっと古いことがあれこれと思い浮かばせられます。
栖鳳先生のことで一番古い記憶は私の十六、七のまだ松年先生の塾に居た頃の思い出のようです。その頃如雲社の新年大会が毎年一月十一日に円山公園で開かれていましたが、私も社中の人達につらなって見に行ったことがあります。この会は京都の各派の先生方からお弟子さん達まで一丸とした会で、殊に新年大会には皆きばって出品され、階上も階下も一杯掛け並べられるという盛況でした。その頃松年塾は斎藤松洲という人が塾頭でしたが、大会の翌日塾で皆が寄合って出品画の噂に花が咲いてるのを聞いていますと、塾頭が「若い者のうちではやっぱり棲鳳氏が一番うまいなア」ということでした。将来恐るべき大天才とその頃松洲氏が喝破したのはえらいと思います。
その時の先生の御出品は「枯木に猿」か何かで私にも記憶がありますが、その頃から先生は若い人達の間に嘱望されていられました。
楳嶺先生の塾に私は二年ばかり御厄介になったのですが、その頃の楳嶺塾では芳文・棲鳳・香※[#「山+喬」、第3水準1−47−89]の三先生が年輩もそこそこですし気も合っていられて、競争のように勉強していられたようです。そのお三人のお姿がちっとも塾に見えないことがありまして、どうしたことかしらと思って居りましたら、鳥渡《ちょっと》この頃破門でということでした。どうした事情かちっとも知りませんが、丁度私が東京の美術協会の出品で琴と笛の合奏してる絵が仕上ったのを見て頂きに楳嶺先生のお宅へ伺いますとお三人で揃って来ていられまして、皆さんの前で私の絵を見て下さったのです。何でも暫くお出入りをとめられていられたのが、丁度楳嶺先生が帝室技芸員になられて近くお祝をしようということになり、こんな芽出度い折りに塾の先輩が揃わぬのはいかぬというので、高谷簡堂などという楳嶺先生と親し
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