って、目をさまさせては寝不足して死ぬよって……」
子供の松篁には水の中で寝るという金魚のことが判らないらしく、
「でも心配やよって……」
と、妙な顔をして――しかし、まだ気になるとみえて金魚鉢をふり返っていた。
友あり遠方から来る愉しからずや……と支那の古人は言った。そうしてあり合わせの魚や山の幸をさし出して心からもてなした。
ご馳走というものは必ずしも山海の珍味を卓上に山盛りすることではない。要はそれをもてなすあるじ達の心の量にあるのではなかろうか。
先日久しく訪わない旧知のお茶人の家を訪れたところ、そこの老夫婦はいたく心から歓迎してくれた。
ところがその歓迎の方法から夫婦は美しい喧嘩をはじめたのである。
ご主人の主張はこうであった。
「今日のお客さんは無理なご馳走を嫌いなかたであるから当節むきに、台所にある有り合わせもので間に合わせばよい。お客さんはそのほうを却って悦ばれるのだ」
奥がたの主張はこうであった。
「それは違う。久しくお目にかからなかったお客さんであるから、うんとご馳走を並べなくてはいけない。あなたご馳走という字は馬に乗って走り廻る也と書きますよ。そのようにして駈けずり廻って作ってすすめてこそはじめてご馳走になるのですよ」
両方ともそのお心には友の私を思って下さる美しいものが溢れているのである。そこで私は仲にはいって時の氏神をつとめたのである。
「今のお二人のお言葉こそ何よりのご馳走様でございます。もう戴いたも同様ですからそれではお薄を一服いただきたい。それを戴いて帰らしてもらいます」
私はご主人の有り合わせのご馳走と、奥方の馬に乗ってかけ廻って作られた――心のご馳走を一服のお薄にこめて有難くいただいてその家を辞した。
芭蕉翁が金沢の城下を訪れたある年のこと、門人衆や金沢の俳人衆の歓迎の句会に山海の珍味を出されたのをみて、我流にはこのような馳走の法はない。私を悦ばせてくれるのなら、ねがわくば一椀の粥に一片の香の物を賜われよ、と門人衆をいましめた話を憶い出しながら私は久しぶりに微笑ましい気持ちを抱いて我が家へ帰ったのである。
私の七つか八つの頃のことである。
母と一緒に建仁寺へ行ったとき、両足院の易者に私の四柱を見てもらったことがある。
四柱というのは、人の生まれた年・月・日・時刻の四つから判断して、その人の運勢を見る法なのである。
易者は私の四柱をしらべていたが、
「こらえらいええ四柱や、この子は名をあげるぜ」
と言った。母は大いに悦んで、易者に、
「おおきに、おおきに」
と何遍も頭をさげていたのを覚えている。
私はたいてい女性の絵ばかり描いている。
しかし、女性は美しければよい、という気持ちで描いたことは一度もない。
一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである。
その絵をみていると邪念の起こらない、またよこしまな心を持っている人でも、その絵に感化されて邪念が清められる……といった絵こそ私の願うところのものである。
芸術を以て人を済度する。
これくらいの自負を画家は持つべきである。
よい人間でなければよい芸術は生まれない。
これは絵でも文学でも、その他の芸術家全体に言える言葉である。
よい芸術を生んでいる芸術家に、悪い人は古来一人もいない。
みなそれぞれ人格の高い人ばかりである。
真・善・美の極地に達した本格的な美人画を描きたい。
私の美人画は、単にきれいな女の人を写実的に描くのではなく、写実は写実で重んじながらも、女性の美に対する理想やあこがれを描き出したい――という気持ちから、それを描いて来たのである。
私も現在の絵三昧の境に没入することが出来るようになるまでには、死ぬるほどの苦しみを幾度もいく度も突き抜けて来たものである。
いたずらに高い理想を抱いて、自分の才能に疑いを持ったとき、平々凡々な人間にしかなれないのなら、別に生きている必要はないと考え、絶望の淵に立って死を決したことも幾度あったことか……
少し名を知られてから、芸術の真実に生きてゆく道に思い悩んで、一体地位や名誉がなんになるのかと、厭世の念にとらわれ、自分の進んでいる道が正しいのか正しくないのかさえ判らず思い悩んだことも幾度。
そのようなことを、つきつめて行けば自殺するほか途はない。
そこを、気の弱いことでどうなると自らをはげまして、芸術に対する熱情と強い意志の力で踏み越えて――とにもかくにも、私は現在の境をひらき、そこに落着くことが出来たのである。
あの当時の苦しみやたのしみは、今になって考えてみると、それが苦楽相半ばして一つの塊りとなって、芸術という溶鉱炉の中でとけあい、意図しなかった高
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