値段表が出て来た。
母は習字のほうは相当やっていたので、なかなかの達筆でかかれてあった。
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一、亀の齢 一斤ニ付 金三圓
一、綾の友 同上 二圓五十銭
一、千歳春 同上 二圓
一、東雲 同上 一圓五十銭
一、宇治の里 同上 一圓三十銭
一、玉露 同上 一圓
一、白打 同上 一圓
一、折鷹 同上 八十銭
[#ここで字下げ終わり]
まだ他にも気のきいた名前の茶銘が記されてあったが下部が裂けていて値段は判明しない。
今の玉露の値と比較すると問題にならぬほど安かったのである。
そして味も比較にならぬほど美味かった。
あの頃の葉茶屋の空気はまことに和かなもので、お寺の坊さん、儒者、画家、茶人それから町家の人たちがお茶を買いに見えたが、お茶はもっとも上品なお使いものであり、あまり裕かな人でなくとも、よいお茶を飲むことが京都の人たちのたしなみになっていた時代であった。
店は四条通りの賑やかなところにあったから、たえず店の前を人が歩いていた。知り合いの人が通ると、
「まあおはいりやす」
「それではちょっと休ませてもらいまっさ」
といったあんばいに、通りがかりのお客さんが腰をおろすと、お茶を買う買わんにかかわらず、家で薄茶をたてて差しあげる。
「あんさんも一服どうどす」
といってみなさんの前にお茶をはこんで行くと、ちょうどぐあいよく隣によいお菓子屋があったので、勝手知ったお茶人が、そのお菓子を買って来て同席の人たちに配って、お茶を啜りながら、腰をおちつけて世間話に花を咲かせたものである。
江戸の床屋が町人のクラブであったように、京の葉茶屋はお茶人のクラブであったといえるのである。
京都の商人もあの頃は優しかった。葉茶屋に限らずどのような店でも万事このようで、総親和というものが見えて買うものも売るものも心からたのしんで売買したものである。
近ごろの商人さんはそうではない。売ってやる、買わせていただく……これでは商道地におちた感である。淋しいことである。その上に「闇」という言葉まで生まれて不正な取引きが行なわれていると聞くと、そぞろにあの頃がなつかしく思う。
もっともあの頃と言えども不正な商人がいないではなかった。
茶店にもとんび[#「とんび」に傍点]というのがよく来た。
新茶の出る時分になると、とんび(茶のブローカー)という商売人が宇治一品のお茶という触れこみで新茶を売りに来る。
この「とんび」が油断のならぬ代物で、こちらがうっかりしていると、宇治一品のお茶どころか、古いお茶をまぜたり田舎のお茶をまぜたりして怪しげなものをつかまされて、ひどい目にあわされるのである。
母はとんびの持ってくるお茶をいちいち飲みわけて、
「これは後口がしぶい。国の茶をおまぜやしたな」
といって相手の奸策を見破るほど鋭敏な舌を持っていた。
ごまかしが利かないとなると、さすがのとんびも兜をぬいで、よいお茶を運んでくるほかはなかった。
商人は、なんでもよい、仕入れて売って儲ければよい――というのではいけない。お客様にいい品を買って悦んで貰わねばいけない……と、母はいつも言っていられた。
今の商人にも、そのような良心が望ましいものである。
子供のころ金魚が好きでよく金魚鉢から金魚をすくい出してそれに赤い着物《べべ》をきせたりし、母に見つかって大目玉を頂戴したものである。
「それでは金魚可愛がったことにならへんやないか。金魚はハダカでいても風邪ひかんもんやよって、着物《べべ》ぬがしておやり」
私は動かなくなった金魚を掌にのせて当惑しながら、母の言葉にうなずいた。
子供心に死んだ金魚を庭の一隅に埋めて小さな石のお墓をたてて母にその仕末を報告した。
母は濡れ縁に立って困った顔をしながら私に言った。
「お墓たててやるのはええことやが、せっかく生えた苔を掘り返しては何にもならへんやないか」
子供の私には良いこと悪いこととの区別が大人ほどはっきり判らなかった。
私はそんな折り心の中で首をかしげるのであった。
「どうしたら大人が褒めてくれる、ええことばかり出来るのであろう」
――と。
伜の松篁も私に似て金魚が好きであった。冬になると金魚鉢を菰でつつんで春まで暗くしておくのであるが、松篁は春になるまで待ちきれず、ときどき廊下の隅の金魚鉢の菰をひらいては隙見していた。そして好きな金魚が寒鯉のように動かずじっとしていると心配になるとみえて、竹のきれをもって来てすき間から金魚をついてみて金魚が動くとさも安心した顔をするのである。
私は静かに教えてやるのである。
「金魚は冬の間は眠っているのやよ
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