人には少々難儀ですけれども、もし徒歩《かち》を厭わぬ人なら、却って楽しみです。
赤土の、すがすがしい、春の光線の透いている藪があったり、五、六軒の農家があったり、椿、連翹《れんぎょう》、木蓮などが見えたり、畠地、小流れ、そんなものがあって、時々人にも出逢いますし、何ともいえないのんびりしたところです。
ですから、そういう景色を好む人なら、少しも退屈どころか、却って興味の多い道筋です。いろいろな情景に目をひかれながらゆきますと、やがて大原野神社に着きます。この神社も古雅な、なかなか結構な社地で、とても幽邃《ゆうすい》なところでして、この辺からすでに桜がちらほら見えます。都会の人の息と風塵に染んだ花とは違っておりまして、ほんの山桜の清々《すがすが》しい美しさは、眼にも心にもしむばかりの感じでした。
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この社地の隣りが花の寺です。少し上り気味の坂にかかると、両側の松や雑木の間から、枝をひろげて、ハミ出ている桜が、登ってゆく人の頭の上にのしかかって咲いております、それはとても見事な美しさでした。
山門をはいってずっと奥にゆきますと、鐘楼があって、そこにまた格好のいい見事な枝垂桜《しだれざくら》があります。向うから坊さんが一人、ひょろりと出てくるといったような風情は、なんともいえない幽静な趣きでした。
この花の寺の後ろに小塩山という山がありますが、これが謡にある「小塩」です。その謡の文句によりますと、昔花に修行の僧侶があって、この花の寺を訪ずれますと、花の精が出てきて、いろいろと由来を説くという筋になっておるのですが、実際の花の寺も、そんな由来《ゆらい》や伝説の発生地にふさわしい古雅なおちついた境地でして、そのままに謡の中の修行僧が出て来ても、一向不思議はないくらいの静けさを見せております。
このくらい[#「このくらい」は底本では「このくら」]京を離れて、このくらい寂然としておりますと、もう俗人などはあまり寄りつきません。人がいてもほんの五人か十人、村の人が三人か五人、そこらに二、三脚のベンチが据えられてあるだけで幽趣この上もないのでした。
私はつい二、三日前そこにまいりまして、ことしこそ、ほんとうの花見をしたような気分になったわけでした。
底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
1976(昭和51)年11月10日初版発行
197
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