また幾分か物なつかしさがあるだろうと思いまして、思いついて青岱《せいたい》の嫁御寮をかいてみたわけでした。

     ○

 新しいものが流行で、だんだん旧いことが廃《すた》れてゆきます。これは絵のことばかりではありません、何も彼も旧いものは廃れてゆく時代なのですから、なおさら心して旧いものを保存したい気にもなります。これは何も、時代に反抗する心というような、そんな烈しい気持ではなくて、自分を守るという気持からです。

 今申した女風俗などでも、新しい人たちは旧いことを顧みようとはしないでしょうし、また顧みも出来ますまい。やはり旧いことは私たちが守るより外はないと思います。しかし新しい人たちだからといって、まるで旧いことには頓着しないというわけでもございますまいが、何しろ、御当人たちは、その境涯を経て来ておられるのではありませんから、それを描こうにも、なんだかしっくりしないところがあって、出そうにも出にくいだろうと思います。そこにまいりますと、私などは明治の初年中年の空気の中をずっと乗り切ってまいっておりますから、それらのことは見たり聞いたりしておりますだけに、深い感じをもっているわけです。

 私も遑《いとま》さえあったら、その見聞した明治女風俗を、何かの折々には描いて置きたいと思っております。

     ○

 京の花は、どこもかしこも俗了《ぞくりょう》でいけません。嵐山も円山もわるいことはないのですが、何しろ大そうな人出でワイワイいっておりますから、ほんとうの花の趣きを味わいかねます。

 京には、花の寺の保勝会というものがありまして、年に僅か二円の会費を納めますと、花の時分にそこへ招待をうけまして、一日ゆっくり花を見て、食事からお茶から、休憩なども自由に出来るようになっております。
 花の寺と申しますのは、その名はきいておりますが、何しろ常には大そう交通の不便な土地ですから、めったに行けるところではございませんが、花はほんとうに幽邃《ゆうすい》で、境地はいたって静かですし少しも雑沓《ざっとう》などは致しませんから、ゆっくりした気もちで半日遊んでいますと、これこそほんとの花見だと納得がまいります。

 花の寺は西行法師に縁《ちなみ》のある古いお寺で、向う町から乗合《バス》でゆけますが、何しろ、寺の手前二十町のところまでしかゆきませんから、道をおっくうに思う
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
上村 松園 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング