のも興味ふかく見たものでした。

   七

 その南画がさかんによろこばれたころ、毎年大きな寺などを借りうけて、南画の大展覧会などがよく催されてゐました。そのころとしては大きな、仮巻につけた沢山の作品が、陳列されてゐたものでした。
 さういふ大げさな催しの事ですから、どうしても経費がかさむ。その経費はどこから出るかといへば、みんな作家たちの手によつてつくられてゐたもので、私などはまつたく別派のものでしたが、尺八などをキツと描いたものでした。これはつまり寄附画だつたのです。しかも、その寄附画を、そのころはなかなか楽しんで描いたものでした。一度も出品などはした事はなかつたのでしたが。
 今日でもその頃の寄附画の箱書が参つたりしますが、それを見るとそのころの生活などがおもはれます。まるで依頼画を描くやうにそれを楽しんで密画を描いたものでした。
 いやそればかりではない。東京の、前の美術院時代に、絵画協会といふ名で、毎年展覧会がありましたが、京都の作家たちが、それとはほとんど関係もないのに、それの経費のための寄附画をかいてゐたものでした。いまからおもふとずいぶん妙なものですが、そのころは、それがおかしくもなんともなかつたものでした。
 いまは、万事が複雑になつて来ましたので、さういふ風に、寄附画を楽しんで描くなどといふ事は出来なくなつて終ひました。今にして見れば、以前のさういふ気持が何かしらなつかしまれるのです。

   八

 古い縮図帖を見ますといろいろなものが出て来ます。こみ入つた、殿上人の管絃をしてゐるさまや、貫之の草仮名や竹杖会の古い写生会のスケツチや、松篁が、乳を呑んでゐる、幼い顔や、これといつてとりとめのない記憶を辿つてゐるやうなものです。
 幼いころの松篁は、まるいまるい顔でした。それがだんだん年とともに、こんなに長い顔になりました。しかし、眉毛のところや、目のあたりが、いまだにそのころのおもかげを残してゐるやうです。
 中には、四郎さん(栖鳳子息)の幼いころのもあります。門を這入つたところが、いまとはちがつて、竹杖会の稽古場になつてゐました。そこで、八田高容さんや、井口華秋さんなどが、大作をしてゐられました。その椽先へ四郎さんが出て来て、遊んでゐられる。それを待つてゐるあひだに、一寸写しておいたものでした。
 扇雀が、まだ小役をしてゐたころの写生も残つて
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