。
五
こんな事がありました。
その頃は今日ほど、数多い売立もありませんでしたが、しかし時々真葛ヶ原の料理屋などで催されて居りました。
さう云ふ時には、かかさず出かけて行つて、これと思ふ作品は写し取つたものでした。処が売立に出かけて行くと云ふ場合は、大抵それを買ひに行くお客さんであるべき筈ですが、私の場合は絵を写しに行くので、買ひに行くお客ではない。
ひとつの作品の前に座つて、いつまでもいつまでも、それを写し取る。
見に来た客の、それが邪魔にならぬと云ふ事はないわけです。或る時、いぢの悪い道具屋が、さうして縮図してゐる私の側につかつかと歩みよつて、客のある時はさう云ふ事をして居られると邪魔になるから、お客のない時にしてくれと云ひました。
その頃は今日と違つて写真版の這入つた目録なぞと云ふものが、まだ出来てゐなかつた。定家卿の懐紙ならば、定家卿の懐紙と活字だけで印刷した、簡単な目録よりなかつたものです。だからこれと思ふものは、どうしても手で写し取つて置かなければならない。
私はこのきつい言葉をきいて、その場は静かに縮図帖をふせてそのまま外に出ました。そこは多分平野屋だつたと覚えてゐます。
表へ出て二、三歩あるきかけた時、なぜかしらぽろぽろと熱い涙がこみあげて来ました。
六
その翌日の事です。むしがしを使ひのものに持つて行つてもらひ、手紙を付けてやりました。
成程お邪魔を致しました事は、まことにお気の毒に存じます。しかし私にして見れば、研究のためで、つい気のつかぬことをいたしました。今後は、お邪魔にならぬ程度に、何卒お見せを願ひます――と云ふやうな意味のことを書きました。
それからは、先方も大変、好感を有つて見せてくれるやうになりました。
今日では写真版があつて、さうしたおもひをしなくとも、どんな名作をも居ながらに見ることが出来ますが、以前はなかなかさうは行かなかつた。しかしその不便さのなかで、現実に自身の手で、写し取つておいたものは、いろいろな点で、それが自分につけ加へるものがあるとおもひます。
そのころ、四条の御幸町角に、吉観といふ染料絵具や、いろいろの物を売つてゐた家があつて、そこへよく、東京から、芳年や、年方などの錦絵が来てゐました。もつともここばかりではなく京都では、錦絵を売る家は、二、三軒もありました。さういふも
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