柳社会の人達には勇気があります。いつだったか、先斗町《ぽんとちょう》で有名な美人の吉弥《きちや》と一緒に何彼と話していた時、お高祖頭巾《こそずきん》の話が出ました。紫縮緬か何かをこっぽりかついで、白い顔だけ出した容子は、なかなか意気ないいものだと思います。そんな話を吉弥も同感していましたので、私は「あんたおしるといい」と勧めますと、一遍やってみまほということで別れたことでした。
婦人には、流行を自分で作り出すくらいの意気地があってほしい気がします。
武子夫人
しかし、流行の魁《さきがけ》となろうとするには、隙《ひま》が要《い》りお金も要るわけです。それに美しい人でないといけない。美しい人だと、どんな風をしてもよく似合うのはそこだろうとも思います。
最近で日本のあるひと頃の流行の魁をなした人として、私は九条武子夫人を思い出します。
武子さんは生前自分で着物の柄などに就いて、呉服屋にこんな風なものあんな柄のものと頻りに註文していられました。この間内から大倉男爵や横山大観さんなどの歓送迎会などの席上で、京都でも一粒選りの美人を随分見る機会がありましたが、目が美しいとか生え際がいいとか、口許が可愛いとか、兎に角部分的に綺麗な人はかなり沢山ありました。けれども何も彼も揃って綺麗な人というと、なかなかいないものだと思いました。第一、あの社会の人だと、何処となく気品に乏しいので、これ一つでもすでに欠点になります。そこに行くと武子さんくらいの人は、よっぽど珍しいと私は思ったことでした。
モデル
大正四、五年頃、私は帝展に「月蝕《げっしょく》の宵」を出そうとかかった時、武子さんにモデルになって貰ったことがあります。といって私は、何も洋画の人のやるように、あらゆる部分をそっくりそのまま写し取ったわけではありません。私の写生の仕方がいつもそうで、彼方此方《あちらこちら》から部分々々のいい処をとってはそれを綜合するというやり方で、武子さんにも立ったり掛けたりして貰って、それを横や後ろから、写さして頂いたのです。
私は時々自分の姿を鏡に映して写生します。それは縮緬みたいな柔かいものを着た時の、褶《ひだ》の線の具合などよくそうして見るのです。そんな場合、自分でやると彼方も此方も双方とも硬くならずに、たいへん自由な心持でよろしいと思います。
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