は気づかぬげにやはり縫い続けておられる。
 私は晩御飯の用意を心配して、子供ごころに空腹を案じながら、そのうしろにじっと坐って母の背中を凝視《みつ》めている。
 ふと、静かな母の針の運びが止まる。
「もうちょっと、ほんのこれだけ縫うたらしまいのんやよって……ほんに陽のめが昏《く》ろうなった……」
 半ば独りごち、半ば背後の私に言うかのように小さな声でそう言われて、つと障子の傍らまでいざり寄られ、針を眼の高さまで挙げ、右の手には縫糸の先を持たれたままの格好で、片方の眼をほそく細く閉じられて、じっと針の目を通そうとなさっている……その姿が私の幼ごころにも、この上なくひとすじに真剣な、あらたかなものに想われたものでした。

 ざっとあれから五十年の歳月が経っていますが、今でも眼を閉じると、そんな母の姿がありありと私の網膜に映じて消ゆることがありません。

 私の第四回文展出品作「夕暮」は、徳川期の美女に託して描いた母への追慕の率直な表現であり、私の幼時の情緒への回顧でもあります。



底本:「青眉抄・青眉抄拾遺」講談社
   1976(昭和51)年11月10日発行
入力:鈴木厚司
校正:川
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