座右第一品
上村松園

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)縮図《しゅくず》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その日|良則《よしのり》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)むきつけ[#「むきつけ」に傍点]に
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     縮図の帳面

 もう大分と前の話ですが、裏ン町で火事があって火の子がパッパッと飛んで来て、どうにも手のつけようがないと思ったことがありました。火の手があまり急に強くなりましたので、家財道具を取り出すという余裕もありませず、イザ身一つで避難しようとします時、何ぞ手に提げて行けるほどの物でもと、そこらを見廻しながら、咄嗟のうちにこれをと思って大急ぎで風呂敷に包んだのは、長年の間に集まっている縮図《しゅくず》と写生の帳面でした。

 その時は、幸いにも大事になりませず、別に避難もしないで済んだわけですが、そうした急場で咄嗟の間に思い当らせられるほどに、縮図と写生の帳面は強い深い思い出を持たされて居ります。いろんな紙を自分で綴じて作った帳面ですから、形も不整いで大小があり厚薄がありますが、何十年かの間に積もり積って重ねましたら、二、三尺ぐらいの高さにもなるほどの嵩《かさ》になって居ます。

 今時とは違いまして、私の若い頃の女の絵の修業には、随分辛いことが沢山ありました。世間の目も同僚の仕打ちも、思わず涙の出ることが何度《いくたび》となくありました。そんな時は唯、今に思い知らしてやると、独り歯噛みして勉強々々と自分で自分に鞭打つより外に道はありませぬでした。そうしては博物館に通い、時折の売立会《うりたてかい》を見に行きして、これはと思うものを縮図して居りました。それが集まったこの帳面なのです。立派に装釘された金目な参考資料などは、一、二度翻えして見ては居ましても記憶にも止まっていないものもあります。ですが私の縮図帳には其の時その時の涙が織り込まれ感奮が描き込まれているわけでございますから、忘れようとしても忘れられぬ思い出があるのです。

     売立の会

 その頃は売立の会などにしましても、今日ほど繁々あるわけでもありませず、時折祇園の栂《とが》の尾《お》辺で小規模に催されるくらいでした。したがってそんな会は私にとっては大切な修業場でした。私は矢立を持っては絵の前に坐り込んで写しました。若さと熱心さがさせることではありますが、朝から坐り込んで晩までお昼の御飯を抜いて描きつづけたことも度々あります。

 売立の会のことですから、都合によっては掛け換えられないでもありませぬし、もし昼飯《ひる》に立ったりしていて掛け換わりでもしては写し損ねますので、坐り込んでしまったわけなのでしたが、その頃は今のようにそうした場所で縮図などしているような人もありませず、それに何処のなんという女子《おなご》やら、誰も知った人もない名もない頃の私なのですから「アッ又来やはった」などと小僧さんや丁稚《でっち》さん達が、わざと私に聞こえよがしの蔭口を利くことなども度々でした。

 一度はこんなこともありました。前後も忘れて一生懸命に縮図をして居りますと「あ、もしもし、そこにそんなにべったり坐り込んで居られますと、お客さんが見に来られるのに邪魔になりますがなア」というようなことをむきつけ[#「むきつけ」に傍点]に番頭さんに言われました。その時には思わず涙が落ちました。私にしましても、最初から商売の邪魔になってはならぬと思いますから、遠慮しいしい小さくなって写しているのです。それをそう意地悪く面と向って言われては口惜し涙も落ちます。私はその日|良則《よしのり》の生菓子を持たせて使の者に手紙を添えて先方へやりまして、女子の身で絵の修業の熱心なあまりとは申しながら、端無《はしたな》い出過ぎたお邪魔をしまして済みませぬでした、と謝まってやりますと、改まって挨拶されて見ますと、先方も気づつなくなりましたものか、葉書を寄こしたりしまして、その次からは「おいでやす。さアどうぞ」などとお愛想を言ってくれられたりするほどにもなりまして、それがまた、かえって気の毒になったこともありました。

     博物館

 博物館は私にとりまして何より大切な勉強場でございました。

 一年の計は元日にあり、ということですから今年は一つ元日から勉強してやりましょう、というような感激に満ちた気持ちで、お屠蘇《とそ》を祝うと朝から博物館に通ったこともありました。近い頃ですと、お正月五日間ぐらい博物館もお休みでございますが、その頃は正月もお休みなしで、よくその年の干支《えと》の絵を並べられたりしてありました。私は今でも忘れませぬが、ある年の元日のこと、大元気で起きて見ますと、一夜のうちに大雪になっていまし
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