今日になるまで
上村松園
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)買《こ》うて
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(例)[#地付き](昭和十五年)
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私は明治八年四月二十三日四条通り御幸町西へ行った所に生まれました。父はこの年の二月既に歿して、私は二十六歳の母の胎内で父の弔いを見送りました。
明治十五年四月、八つで小学校六級に入学しました。草履袋をさげ石盤と石筆を風呂敷に包んで通学したものでした。
その頃習ったものは修礼(お作法)手芸が主なものでした。私は絵が好きで、いつも石盤に美人画を描きましたので、誰も彼も私にもと言って描くのを頼まれました。
受持は中島眞義先生で、なかなか子供の信頼がありました。先生に習うというと皆が手を打って喜んだものでした。ある年先生から、煙草盆を描きなさいと言いつけられ、それを祇園有楽館の展覧会に出品して賞に硯を頂いた事を覚えています。その硯は永年使用していましたが、もう金文字入の賞の字も磨滅して分らなくなってしまいました。
母はなかなか読書が好きでいつも貸本屋から借りた本が置いてありましたので、自然私もそれを読みました。
又綴り本を積んで家をこしらえ、作ったおやまさんを立てかけてお飾りをするのが唯一の遊びごとでした。
ところが父の始めました葉茶屋の商売を引きつづき背負って立とうとした母に、親類から種々の忠言がありました。然し母は父の始めた商売ではあり、石にかじりついても親子三人でやってゆきますと言って八つになる姉と三人で敢然と立ち上りました。
小さい時分から絵を描くのが一番の楽しみでした。四条御幸町の角に吉勘と言って錦絵の木版画や白描を売っている店がありましたが、使い走りをした時などここで絵を買《こ》うて貰うのが一番好きなお駄賃でした。
また四条通りに出る夜店をひやかして、古絵本を見つけると、母の腕にぶら下ってせがみ財布の紐をほどいて貰ったこともありました。私は子供の時分から人の髪を結う事が好きで近所の子供を呼んできては、お煙草盆や、ひっつけ髪や、ひっくくりの雀びんやらを結うて、つまり子供達をモデルに髪形の研究をしていました。
私が絵を習い始めた頃は、女が絵を習うと言うのは一般に不思議がる頃でした。十四の年に親類の承知しない画学校へ入学さして貰ったのです。
私の師匠は鈴木松年先生が最初で、人物を習い、次に幸野楳嶺先生に花鳥を習い、次に竹内栖鳳先生に師事しました。また十九の頃漢学も習い始めました。その時分の京都では狩野派や四条派の花鳥山水が全盛で、人物画の参考が全然ありませんでした。そこで参考品を探すのに非常に苦心をしました。博物館に行ったり、神社仏閣に風俗の絵巻物があると聞いては紹介状を貰って、のこのこ出掛けて行きました。殊に祇園祭には京都中の家々が競うて秘蔵の屏風、絵巻や掛軸などを、陳列しますからこの機会を逃さず、写生帖を持って美しく着飾って歩いている人達の間を小走りに通りぬけて、次から次へ写してゆきました。塾生の間に松園の写生帖と言って評判が立ったのは、この時です。
京都では、美人画をやり始めたのは私が最初でしょう。然し今日に至るまでには種々の苦労がありました。私が展覧会で優秀賞を貰うと、塾の仲間の人達が、嫉妬で私の絵具や絵具皿や大事な縮図本を隠したりしました。
明治三十七年の事です、〈遊女亀遊の図〉を、京都の展覧会に出した事がありました。ある日会場で、何者とも知れず亀遊の顔を鉛筆のようなもので、めちゃくちゃによごしてしまったという事もありました。
この様に口惜しいことやら、悲しい事やら幾つあったか知れません。幾つも幾つも、そういう難関を突破して来て、今すべてが、打って一丸となって、それが悉《ことごと》く芸術に浄化せられて筆を持てば、真に念頭に塵一つとどめず絵三昧の境地に入れます。
人間の一代は、実に舟に乗って旅をするようで、航程には雨もあれば風もあります。その難関を突き抜けて行くうちに次第に強く生きる力を与えられます。他人を頼りにしては駄目です。自分の救い手は矢張自分です。立派な人間でないと芸術は生まれません。人格がその人の芸術を定めるのです。筆の上に自分の心を描いているので、人前の良い、派手な事ばかり目掛けでも、心に真実がなければ駄目です。又人間は絶えず反省する事が大事で、そこに進歩があります。
私の母は昭和九年の二月、八十六歳の高齢で歿しました。今では、門人が写してくれた大きな写真を仏間にかけて、旅に出るときなど、「行って参ります」と言って、帰って来ると「お母さん只今」と真先に挨拶をします。
門閥も背景もない私が真の独立独歩で芸術に精進することが出来ましたのは、全く母が葉茶の商売を盛り立てて収入の範囲で
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